2018年8月2日号掲載
高校野球の本質を問う試合
さまざまな点で平成4年2回戦の星稜―明徳義塾戦は甲子園に特筆される名試合だった。それは、高校野球とは何か――という本質を問う試合だったからだ。
星稜の4番松井秀喜に対して採った明徳の徹底した敬遠策が、社会的な論争を巻き起こし、明徳の宿舎には放火予告などの脅迫や非難、また一方で応援の手紙やメッセージが殺到し、以後の明徳の練習には、警察による警備がつくなどの大騒動となった。
この試合はこれらの論争とは別に、ある意味、高校野球に根源的な問いを投げかけるものだったと言える。それは、「力の劣ったチームが一発勝負の甲子園で、戦略と創意工夫で強豪校を倒すことができるのか」ということにほかならない。言いかえれば、高校野球は有力選手を集めた方が勝つのか否か、ということだ。
松井選手がいかなる怪物だったか。日本のプロ野球だけではなく本場アメリカのメジャーでのその後の大活躍など、説明は要すまい。明徳の馬淵監督が「高校生の中にプロの選手がひとり入っている」と洩(も)らしたように、ミート力、飛距離、選球眼……なにをとってもケタ違いだった。
しかも、明徳はこのときエース岡村が肘(ひじ)の故障で投げられず、制球力はいいものの、スピードが130キロに満たないセンターの河野で闘わざるを得ないハンディを負っていた。「エースの岡村なら勝負だが、河野では松井との対決は無理」というのは、馬淵監督でなくても、当然の結論だっただろう。しかし、そこから社会人野球の監督経験もある馬淵監督ならではの作戦が編み出されるのである。
それは、「松井を敬遠した場合、果たして次打者を打ちとれるか」という点に尽きた。松井を敬遠すれば、当然、大量失点に結びつく可能性がある。この作戦が採れるか否かは、あくまで「次打者」を打ちとれるかどうかにかかっていたのだ。星稜の5番月岩は長打力、ミート力とも優れたスラッガーである。どこか月岩に弱点はないのか。馬淵監督による徹底分析が続いた。
「左肩の開きが少し早い」
馬淵はやがてそのことに気がついた。「このスイングなら内角高めと外角低めの“対角線上の揺さぶり”で打ちとれる。特に最後は、外角低めのカーブが有効だ」。馬淵はそう結論づけた。これでいける、と。
前夜のミーティングで馬淵は、「明日の試合は、こっちが松井と勝負せざるを得ないところに追い込まれるか否かに勝敗がかかっている」と選手たちに告げた。
罵声と怒号の中で
馬淵監督の方針は徹底して実行されていく。
試合は、明徳が2回裏、スクイズと長打で2点を先取。3回にも1死満塁からタイムリーで1点を加える。星稜は3回表、松井敬遠のあとの1死満塁で月岩がスクイズを決め、1点。5回表は6番福角のタイムリーで1点を奪う。試合は明徳1点リードのまま終盤にもつれ込んでいく。
だが、くり返される松井への敬遠に甲子園の雰囲気は険悪さを増していった。7回表2死走者なしの場面でも敬遠は実行された。スタンドから「勝負せんかあ!」「いい加減にしろ!」という凄まじい罵声が飛ぶ。
いよいよ3対2、明徳1点リードで迎えた9回表、2死から3番山口が左中間を抜く3塁打を放つ。2死3塁。土壇場で一打同点のチャンスだった。ここで打者は松井。騒然となる中、馬淵は河野に当然のごとく敬遠を命じた。たまらず3塁側星稜の応援席からメガホンや紙コップなどが次々と投げ入れられた。
試合中断。前代未聞の事態だった。
「物を投げ込むのはやめてください!」。アナウンスが流れる中、星稜の山下監督以下、ナインたちが投げ込まれたものを拾いにいく。
次打者月岩はネクストバッターズサークルで茫然と立ち尽くしていた。試合が再開されると松井は、すかさず盗塁。2死2、3塁。一打逆転である。しかし、2―2からの5球目、研究され尽くした河野の外角カーブが月岩に投じられた。
観客はスローモーションであるかのようにそのシーンを見た。月岩のバットに弾かれた打球はサードへ。スピンのきいた難しいゴロだった。しかし、明徳のサード久岡の矢のような送球がファースト岡村のグラブに吸い込まれた。岡村は肘を壊して投げられなかった本来の明徳のエースである。その岡村がウィニングボールを捕ったのだ。
歓喜の中、ホームプレートに並んだ明徳ナインは信じられないものを耳にする。
「帰れ! 帰れ!」
場内に帰れコールが満ち、明徳の校歌がほとんどかき消されてしまったのだ。ありえない光景だった。
後に語った「あの作戦は当然」
驚いたのは、高野連と主催の朝日新聞が明徳批判に終始したことだ。ルールを破ったわけでもない明徳を一方的に批判し、グランドへの物の投げ込みに同情を示す本末転倒の態度をとったのである。
清々(すがすが)しさ、高校生らしさ、爽やかさ……それは、高野連と主催新聞社がつくり上げてきたものだ。しかし、そんな“美談の高校野球”に真っ向から挑戦し、甲子園が究極の「勝負の世界」であることを天下に示した試合。それが星稜―明徳義塾戦だったのである。
この試合から17年後、馬淵監督が筆者に語ってくれた言葉が印象深い。
「高校野球は、おカネのためにやるものでも、観客のためにやるものでもない。歯を食いしばって、ただ勝利を目指して球児たちがやるものです。司馬遼太郎の『坂の上の雲』ではありませんが、私たちは、あのとき星稜打線を徹底的に分析して“全力を挙げて敵の分力を撃つ”という作戦を採りました。結果的に月岩君に辛い思いをさせてしまった。いつかは“申し訳なかったなあ”と、月岩君とじっくり話したいと思っているんですよ」
平成21年、35歳になっていた月岩君も、筆者にこう語ってくれた。
「自分への攻め方はすべて当たっています。馬淵監督がそこまで僕のことを研究してくれていたことは逆に光栄です。ルールに則ったことですから、あの作戦は当然でしょう。これは僕が打てなかったということに尽きます。山下監督は最後まで僕を使ってくれたし、本当に自分は幸せ者だなあ、と思います。馬淵監督とも是非話したいですね。あの経験は僕にしかできなかったものであり、僕にとっては、人生の宝ですから」
勝負の世界でぶつかり合った当事者同士は、本当に爽やかなのに、高野連やら朝日新聞が出張ってくると、なぜこれほど本質が歪(ゆが)められてしまうのだろうか。
この記事は、門田隆将氏の執筆であり、
>6番福角
が、朝日新聞社スポーツ部として書いた記事と比較すれば、
明徳の馬淵監督
寄りと言う連中が存在するだろう。
私は、中立な記事と判断した。
習志野が現在置かれている状況を考察するためには、この「松井秀喜5打席連続敬遠」に触れないわけにはいかない。
朝日新聞が現在続けているキャンペーン「勝利至上主義」は「害悪」の発祥した試合でもある。
つまり、歪んだ星稜OB連中(正常な星稜OBもいる)と、朝日新聞の27年間にもおよぶ
執念深い*「恨(ハン)」の歴史である。
*朝鮮民族にとっての「恨」は、単なる恨みや辛みだけでなく、無念さや悲哀や無常観、(虐げる側である優越者に対する)あこがれや妬み、悲惨な境遇からの解放願望など、様々な感情をあらわすものであり、この文化は「恨の文化」とも呼ばれる。
<背景>
・ 星稜高校監督の山下智茂にとっても松井の存在は特別だった。打撃の松井、投球の山口が揃ったときから全国制覇を「狙いに」いくことを決めていた山下が率いる星稜は、石川県はおろか北信越地方でも突出した実力を持つまでになっていて、全国でも5本の指に入る強豪チームであり、夏の甲子園でも優勝候補の一角に挙げられていた。
<試合後>
・ 山下は「甲子園で男と男の勝負をしてほしかった」「残念です」とだけ述べた。
・ 明徳に全く勝負させてもらえなかった松井は、試合後インタビューで「正直いって野球らしくない。でも歩かすのも作戦。自分がどうこう言えない」というコメントに留めた。
・ 高野連の牧野直隆会長は会見で「無走者の時には、正面から勝負して欲しかった。一年間、この日のためにお互いに苦しい練習をしてきたのだから、その力を思い切りぶつけ合うのが高校野球ではないか」「勝とうというのに走りすぎる。すべてに度合いというものがあり、今回は度がすぎている」といった談話を発表した。
・ さらに話題となったのは主催の朝日新聞に掲載されたコラム「大事なもの忘れた明徳ベンチ」だった。
今大会屈指の好打者といわれた星稜・松井が5打席全部敬遠の四球で打たせてもらえなかった。しかも、明徳義塾の河野投手は1球もストライクを取らず、外角へ大きくはずれる20球を投げただけ。馬淵監督の指示による「敬遠策」はまんまと成功して、明徳義塾は勝ちを手にしたが、果たしてこの勝ち方で良かったかどうか?
試合後、馬淵監督は「四国の野球が石川の野球に負けられない」と豪語していたのに、フタを明ければ姑息(こそく)な逃げ四球策とは。他の四国勢が聞けば憤然とするだろう。〔中略〕
しかし、どんな手段を取ってでも「勝つんだ」という態度はどう考えても理解しがたい。特に、走者のいない二死無走者(七回)までもボール連発を命じた時は、おとなのエゴを見たような気がして、不愉快ささえ覚えた。 — 朝日新聞「大事なもの忘れた明徳ベンチ」1992年8月17日付夕刊8面
・ 星稜戦に勝った明徳義塾の宿舎には、試合終了直後から「選手に危害を加える」などの抗議や嫌がらせの電話と投書が相次いだ(この宿舎には明徳義塾が出場した際に、その後何年も同じ嫌がらせが続いたという。)。また宿舎の周りには一部の野球ファンなどが殺到し、「馬淵出てこい!」「松井に土下座しろ!」と喚き立てるなど一時混乱が生じ、馬淵監督や選手達の身を守るために、警察官やパトカーが出動するという厳戒態勢が敷かれた。マスコミ陣も大勢が殺到、その影響により明徳の関係者は、宿舎から自由に外出さえも出来ない状態となってしまい、馬淵監督自身も「タバコさえも買いに行けない」と言うほどであった。また、明徳義塾の宿舎から練習グラウンドへ外出する際も、多くの警備員にガードされながらの移動となった。その後、3回戦の抽選会に訪れた筒井に対して、スタンドから野次や罵倒を飛ばす者もいた。
1992年(平成4年)8月22日、明徳義塾は3回戦で広島県立広島工業高等学校と対戦した。甲子園のスタンドには、あちこちに多くの警備員や警察官が配備された。広島工業の応援席では父母の会により「明徳はルール違反をしたわけではなく、選手に何の罪もありません。我が野球部でも同じ作戦を採用したかもわかりません」と記されたビラが配られた。なお、この年に明徳義塾と広島工業は練習試合で2試合戦い、2試合とも明徳義塾が圧勝していたがこの甲子園での明徳義塾は前試合からの騒動による精神的ダメージは拭えず、本来のプレーをほとんど発揮できないまま広島工業に0-8と大敗を喫した。
その後、宿舎で開かれたミーティングで明徳義塾の馬淵監督は部員達を前に思わず号泣し、その監督の涙にもらい泣きする選手がほとんどであったという。河野によればこの時、馬淵監督の言葉をハッキリ聞き取れたのは「おまえらはようやった」の一言だけとの事だった。
・ 馬淵監督は、世間を大きく騒がせ迷惑を掛けたお詫びにと、学校長に野球部監督の辞表を提出しようとした。しかし、学校長は「間違っていることをしたんじゃないんだから。あそこで監督を辞めさせたら、それこそ教育にならんでしょう」との考えから辞表を受け取らずに慰留、馬淵監督はそのまま野球部監督を続けた。
・ 星稜は秋のべにばな国体に2回戦敗退ながらも異例の選出となった(明徳義塾は選出されず)。松井は、国体決勝戦の対尽誠学園高等学校戦の最後の打席で高校通算60号の本塁打を放つなどの活躍により、星稜高校は国体優勝し前年の明治神宮野球大会に続くシーズン二冠を達成した。
・ 月岩は松井敬遠後に奮起して打席に立ったものの5打席0安打(スクイズの1点のみ)だったことで、石川に帰った後地元の人からは後ろ指をさされ、自宅には敬遠の試合の感想を求める記者が殺到し、嫌がらせの投書が相次いで送られるなど精神的に堪えてしまい、進学が決まっていた大阪経済大学の練習に参加するが敬遠の試合のことで周囲にからかわれ、これが原因でその後すぐに退学した。
1. 山下は馬淵が練習を偵察に訪れていることに気がつかなかったという。
2. 馬淵自身が認めているのは、捕手を立たせないという指示だけである
3. ベンチ入りできずに応援席に入った野球部員を含めて、松井へのこの露骨な敬遠行為に激怒した星稜関係者は多かった。
<コメント>
とうとうアンタッチャブルな「松井秀喜」に触れる第一弾になるかもしれません。
朝日新聞を筆頭に、天下の「悪役」に仕立てられた明徳・馬淵監督のこの試合で示した「真実」は、
清々(すがすが)しさ、高校生らしさ、爽やかさ……それは、高野連と主催新聞社がつくり上げてきたものだ。しかし、そんな“美談の高校野球”に真っ向から挑戦し、甲子園が究極の「勝負の世界」であることを天下に示した試合。それが星稜―明徳義塾戦だったのである。
(*習志野・小林監督もまるで犯罪者のごとく扱われました )
これが、「野球害毒論」を信仰する朝日新聞には、我慢ならなかったことが、このブログの読者にはわかるはずです。
しかも、その相手が、同胞が主体の星稜です。
彼らのDNAに火がつき、限度なく責め立てた結果が、「松井秀喜5打席連続敬遠」の真相です。
>勝負の世界でぶつかり合った当事者同士は、本当に爽やか
これには、補足が必要です。
さわやかと確証が持てるのは、星稜サイドでは、月岩氏のみです。
当時と今春のセンバツを置き換えてみます。
星稜高校監督の「林和成」にとっても「奥川」の存在は特別だった。打撃の○○、投球の奥川が揃ったときから全国制覇を「狙いに」いくことを決めていた林が率いる星稜は、石川県はおろか北信越地方でも突出した実力を持つまでになっていて、全国でも5本の指に入る強豪チームであり、センバツの甲子園でも優勝候補の筆頭に挙げられていた。
同じです。
>山下は「甲子園で男と男の勝負をしてほしかった「残念です」とだけ述べた。
試合後に、林和成監督(43)がサインの伝達行為があったとして、習志野(千葉)の小林徹監督(56)に猛抗議した。同点につながった場面に疑念を抱き、「フェアじゃない」と怒り心頭。物議をかもす事態となった。
>高野連の牧野直隆会長は会見で「無走者の時には、正面から勝負して欲しかった。一年間、この日のためにお互いに苦しい練習をしてきたのだから、その力を思い切りぶつけ合うのが高校野球ではないか」「勝とうというのに走りすぎる。」
どうしようもない、中立性をかなぐり捨てた「野球害毒論」を信仰する、朝日新聞の意向に沿った発言と捉えられるでしょう。
牧野直隆氏の発言は、現在でも、
「野球害毒論」の根拠(こじつけ)として利用されております。
編集委員・安藤嘉浩 2019年4月26日20時00分
の(根本的に野球というスポーツを理解していない)記事も一読してください。
だからといって、無理をして故障していいはずはない。日本高野連が投手の障害予防に取り組み始めた平成初期、当時の牧野直隆会長は「肩ひじを故障して自分の子どもとキャッチボールもできないような球児をつくりたくない」と話していた。
主催の朝日新聞に掲載されたコラム「大事なもの忘れた明徳ベンチ」
>果たしてこの勝ち方で良かったかどうか?
>姑息(こそく)な
>おとなのエゴを見たような気がして、不愉快ささえ覚えた
>どんな手段を取ってでも「勝つんだ」という態度はどう考えても理解しがたい。
日刊スポーツが、「サイン盗みを考える」で使用したワードと同じであり、習志野は「悪」と断じた論調と変りません。
>この宿舎には明徳義塾が出場した際に、その後何年も同じ嫌がらせが続いた
しつこさが共通します。
>星稜は秋のべにばな国体に2回戦敗退ながらも異例の選出となった
異例ではなく、「工作」でしょう。
現状と同じです。
>この甲子園での明徳義塾は前試合からの騒動による精神的ダメージは拭えず、本来のプレーをほとんど発揮できないまま広島工業に0-8と大敗を喫した。
幾度も触れておりますが、
習志野も印象操作で追い込まれ、通常なら市立和歌山戦で負けていたことでしょう。
そこを覆した精神力に「良識ある高校野球ファン」は、感銘を受けたのではないでしょうか。
光は、
広島工業の相手をリスペクトした公平中立な姿勢です。
工作でヒステリックになっている作られた世論に惑わされておりません。
おそらくは、明徳を知る広島工業監督さんなどの行き届いた配慮もあったのではないでしょうか。
また、明徳学校長の圧力に負けない判断には感銘を受けました。
後の明徳義塾の活躍を暗示した出来事だと思います。
以上の通り、「歴史が繰り返されている」に過ぎません。
当然です。
朝日新聞・高野連・星稜高校
は、何も変っておらず、更に、ここに、逆恨みしている「新たな」星稜OBが加わっているのですから。
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ブログを開設してから、28日間が経過しました。
「アクセス解析」とにらめっこを続けております。
当初は、検索エンジンに引っかからない状態でしたので、Twitter経由でご覧になる読者がほぼ100%でした。5ちゃんからの読者が23%まで伸びたことから一時70%を切りましたが、現在は76%です。
再び、Twitterの比率が大きくなっておりますが、徐々に他の媒体を経由した動きが出てきました。が、検索エンジンからのアクセスはまだまだです。
読者数は、54、変らずです。
ブックマークは、変化なしです。
*特に、「読者数」「ブックマーク」を重視しております。
「いいね」には、
*Hatenaブログ・「ユーザー登録」が必要なことに気がつきました。
一手間必要ですが、ご協力していただけると有難いです。6/25記
アクセス数は一定の水準から、再び増加傾向に転じ、開設2日目の「謹慎中、星稜・林監督は「本当に」反省していたのか? 」の1日アクセス数・過去最高を10.5%上回りました。
目標である「一定の数の世論」形成に光が差してきた動きが継続しております。
昨日の記事が、「地味」だったかもしれませんが、
最低限と考えてるアクセス数に届きませんでした。
が、音から見ると、気づいて頂きたい大切なポイントです。
朝日新聞の「偽善」に気づかず、踊らされている現状は「危機的」です。
Twitterの活用を6/22から開始しました。
ここまで、ブログの記事の「質」に注力しておりましたが、それだけでは「努力」不足と判断しました。
また、6/21PM8に、「ブログランキング」に登録しました。
このブログが、高校野球の事件を扱い、その首謀者が、在日が支配するマスコミですので、「高校野球」「ジャーナリズム」「特定アジア」の3つを選択しました。
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残念ながら、5.8%という状況です。