Twitter(主に、ブログ記事をシェアしているアカウント)から、前回の記事が、千葉黎明関係者(銚子商戦でも活躍した選手・引退した3年生及びOB等)の目に触れたことを確認した。喜びと共に、いい加減な記事は書けないと肝に銘じました。
元千葉の球児および一高校野球ファンとして応援しております。
予告していた「千葉黎明の強さの要因について」です。
(外部からではうかがい知れないことが多々あると思います。「コメント欄」「Twitter」でご指摘下さい。)
>特に感心させられたのが、千葉黎明のベンチ外の選手達だ。
駐車場数カ所に配置された選手達が、観客個々に、必ず帽子を取り一礼+挨拶。
その徹底ぶりと、純朴さに驚かされた。彼らに、「やらされている感がない」のだ。
*千葉黎明の強さの要因については、別途記事にしたいと考えている。一言だけ添えたいのは、西村清理事長のリーダーシップだ。アカデミー業界において誠に貴重な一角の人物だ。
「師弟同行」とは、先生と生徒が一緒になって考え、行動することです。共に汗を流し、共に感動し、共に育むことです。
今春に、大きなブランクを経て、高校野球の観戦を再開しました。
ベースは自分の現役時代の印象のため、当然に馴染みのない、私にとってのNEWがありました。その代表格の1つが千葉黎明でした(もう一つが千葉学芸)。
旧名:八街学園(1977-94)
これで合点がいきましたが、ますます疑問です。
どうして強くなったのだろうか?
初見は、
2019.04.29県立柏の葉公園野球場
千葉黎明 5 - 4 日体大柏
でした。
二出川選手の体を屈めて構える特徴的な打撃フォームが印象的でした。
(新チームの二出川君は、弟さんでしょうか。)
春は、ベスト8を賭けて、同じ東部地区の成田と激突。4-1とリードしていたが、8回に7点を奪われ逆転負けを喫しました。
夏はCシードで望み、2,3回戦は、北川選手(3本塁打)を中心に打棒爆発。
Aシード銚子商の最初の難関と思われましたが、銚子商同様市川高校(0-1)
に足下をすくわれた印象です。
新チームには、多くの夏の主力とベンチ入りメンバーが残っており、3年生の思いを引き継いでいたことでしょう。
9/23@ナスパで、観戦しました。成東戦です。
(古豪「悲運の成東」にフォーカスした記事です。この時点では、荒井総監督が成東高校出身であることを知りませんでした。)
台風の影響で強風が吹き荒れる中、東部地区の4チームが激突しました。
監督の采配とその徹底度(選手のパフォーマンス)で、最も優れたゲーム展開をしておりました。
予想通り、次戦の習志野戦でも接戦を演じたことは記述した通りです。
>千葉黎明は春秋関東大会にコマを進めているが、選手権は2009年のベスト8(習志野4-1千葉黎明)が最高成績。この秋も習志野(4-2)と最も接戦を演じました。
*秋季大会の観戦をベースとした2020年千葉有力校ランキングでは、S習志野、A木更津総合 に次ぐ位置にいる(成田などと同格)と観ております。
関東大会;
春3回:2000、16、18
秋1回:2014
夏ベスト8:1998、2000、2009
千葉黎明に校名を改めた1995年 の3年後に、頭角を現した事が分かる。
当時の指導者が不明だが、西村清理事長のリーダーシップ(人脈)から、大学・社会人での指導実績のある複数の大物を、千葉黎明に招聘したようだ。
確認できた指導者は、以下の2名。
林 裕幸
1955.7.7生まれ/佐賀県出身/東海大相模高→東海大→新日本石油
この年限りで勇退した林だが、1999年から日本代表コーチを務めると、シドニー五輪後の2000年秋から監督に復帰。2002年までチームの強化に努め、現在は千葉黎明高校野球部監督。"勝利を呼ぶ男"は、まだまだ勝利を求めて自ら全力疾走を続けている。日石の監督時代、林は野球日記をつけていた。その日にあったこと、感じたことを書きとめ、チームや選手たちの成長を的確に把握しようと努めたのだ。時代は変わり、若い選手の気質にも変化が見られる。だが、野球に取り組む者たちに必要な要素には変わりはないと林は言う。林は今日もノックバットを手に千葉黎明高校のグラウンドに立つ。いつか、ENEOS野球部で活躍する選手を育てようと。
*在任期間不明だが、2003から千葉黎明の監督を務めたことがわかる
*2011/4から荒井氏が監督就任。
2019年コーチだった鵜沢元氏が監督に就任して、荒井氏が総監督になった。
2019.1.8 05:00
千葉黎明・荒井監督が退任 後任監督は鵜沢元氏
千葉黎明高野球部の荒井信久監督(64)が退任し、1月1日付で総監督になったことが7日、分かった。後任監督は部長を務めてきた鵜沢元(つかさ)氏(46)。
千葉・成東高から捕手の荒井氏は、明大時代に明治神宮大会優勝。神戸製鋼では選手として都市対抗優勝、1987年からは監督。96年から2001年は明大の監督を務め、04年からプロ野球・横浜のスカウト部長に転身。オリックスのスカウトを経て、11年から千葉黎明で指導してきた。
千葉黎明・荒井監督 環境も野球観も変わった
[2016年7月7日10時0分 紙面から]
<野球の国から 高校野球監督列伝 私学編3>
千葉黎明の荒井信久監督(62)が、多彩な経験を生かして高校野球でも頂点を狙う。現役時代は成東高(千葉)では甲子園に届かなかったが、明大、神戸製鋼で日本一を経験。指導者としてもバルセロナ五輪銅メダルに導き、横浜(現DeNA)のスカウト部長などを歴任した。11年4月から指揮を執り、今春は県大会準優勝で関東大会8強。手応え十分で夏に挑む。
忘れ物を取りに来た。荒井監督は「18歳から千葉を離れっぱなしだったので、故郷への思いもあった」。11年4月、実家の山武市にほど近い千葉黎明の監督に就任した。「今まで出来上がった選手と野球をやってきた。高校生と甲子園に行きたいと思った」。還暦を目前に、自身がかなえられなかった夢を追い始めた。
船出は苦難の連続だった。グラウンドの右翼付近は雑草だらけ。打球が外野の防球ネットを越えても、誰も取りに行こうとしなかった。学校の敷地内に両翼90メートルの専用グラウンドがあるのに、練習試合はすべて遠征だった。「5年以上前から、近所の方と試合をしない約束になっていた。カルチャーショックでしたね。考えもしなかったことばかり起こった」。すぐに防球ネットを補修し、ホームベースは5メートル後方に下げた。近隣住民に頼み込み、自校での試合が再開。環境整備が改革の第1歩だった。
野球観も変わった。最も顕著なのはバントだ。「2ストライクになっても、逆にスリーバントのサインを出すようになりましたね」。大学や社会人では、役割を果たせなければ出場機会を失う危機感を持つ。高校生は違った。「すぐスネるし、あきらめちゃう(笑い)。選手を信頼してあげないといけない」。采配に込める思いも強くなった。
プロに送り込んだ教え子の成功例を話して育成する。明大では元中日川上憲伸氏(41)、神戸製鋼では元西武和田一浩氏(44、日刊スポーツ評論家)を育てた。スカウトとしても、プロで活躍する素材を見抜いてきた。「投手だったらトップが安定しているかなど、いい選手の共通点はある」。プロ入りを目指す右腕エース川口廉(3年)には、川上氏も得意としたフィールディングを含めた総合力の大切さを説いている。
就任から5年の今春、過去最高の県準優勝。関東大会では常総学院(茨城)を破り、横浜(神奈川)にも7回まで1-2と接戦を演じた。「島君(東海大市原望洋)、藤平君(横浜)と公式戦で当たれたのはウチだけ。前とは違う工夫をしている」と不敵に笑った。「選手には『4000分の1になろう』と言っている。高校でも日本一、取りたいね」。激戦区・千葉から、この夏の主役に躍り出る。【鹿野雄太】
◆荒井信久(あらい・のぶひさ)1954年(昭29)3月19日、千葉・山武市生まれ。成東高では主に捕手。甲子園出場なし。明大では4年秋に明治神宮大会優勝。神戸製鋼に進み、77年都市対抗で優勝。86年に現役を引退し、92年バルセロナ五輪代表コーチとして銅メダル。94年から01年まで明大監督。04年から横浜(現DeNA)でスカウト部長。08年はオリックスでスカウトを務め、11年4月に千葉黎明の監督に就任。
*2013年当時に、千葉黎明・副部長(コーチ?)
だった高倉伸介氏が、今春ベスト8に進出した千葉学芸の監督をしている。
地元三重の方と思われる投稿;
出身は甲子園優勝経験がある名門の三重高校で、現役時代は投手としてご活躍されました。指導者としても母校三重高校で優勝し、プロ野球選手も育成されている優秀な先生です。
<コメント>
> 明大では元中日川上憲伸氏(41)、神戸製鋼では元西武和田一浩氏(44、日刊スポーツ評論家)を育てた。スカウトとしても、プロで活躍する素材を見抜いてきた。
荒井氏の経歴をみれば、指導力のみならず、中学生の原石を見抜く力と広い人脈を擁しているのは明らかだ。
しかし、秋のベンチ入りメンバーを確認すると「地元」出身者が大半を占めている。
(1年生に大阪出身が1人いる)
>故郷への思い
>今まで出来上がった選手と野球をやってきた
「育成」に力を入れた、地元に根ざしたチームが基調なのだろう。
成東高校出身の荒井氏の「悲運の成東」への思いが、千葉黎明に受け継がれている、のではないか。
卓越した指導者+才能ある原石の発掘(スカウト)
+千葉黎明の哲学およびバックアップ
強くなるはずである。
>4年連続で銚子商高に敗れ、甲子園に出場できなかった成東高は「悲運の成東」とも呼ばれました。