>習志野は、東海大相模敗戦後、きっぱりと夏に照準を切り替えております。
私の興味も、100%春の県大会に切り替わりました。
個人的に、「ウエートトレーニング+食トレ」で、高反発の金属バットを振り回す野球は面白みを感じません。野球の質の退化とさえ思っています。
「野球害毒論」の蔓延は目を覆うばかりで、マスコミがとり上げるチームの監督の多くがその信者の有様です。
選抜では、頭を使った緻密な野球を思考するチームを応援したいと思いますが、現時点では思い当たりません。
--------------------------------
大ざっぱに千葉の高校野球史を辿れば、王者銚子商業に、石井監督率いる習志野が食らいつき、一時代を築いた。
共に、「緻密な野球」を志向していた。
この2校に、個性豊かな指導者が挑み、更に、高校数の急増が重なり選手が分散。
戦国千葉が現出し、今に至ると言えるのではないか。
近年、所謂標準的「強豪私学」を志向する高校が台頭しても、緻密な野球に足下をすくわれて長続きしない。
そこが、千葉の高校野球の面白さだと考えている。
各県ごとに地域性があってしかるべきであり、朝日新聞「野球害毒論」に染まった、訳の分からない「フェアプレー」と、高反発の金属バットを振り回す野球が席巻する状況に興醒めしている。
観戦をベースとした主観に基づく、*観戦していないチームは含めていない
<千葉県高校野球ランキング>
S 習志野
A 木更津総合・拓大紅陵
B 拓大紅陵・成田・中央学院・千葉黎明・専修大松戸
C 銚子商業・学館船橋・志学館・千葉学芸、東海大望洋・我孫子東
観戦していないが有力と思えるチーム
東海大浦安、千葉明徳、千葉経済、千葉商大付
*青地:上記の記事で取り上げられた高校
*赤字:東部地区
ここで、観戦する中で、標準的「強豪私学」を志向する高校に思えた2校を取り上げる。
専修大松戸と東海大望洋だ。
秋季大会準々決勝でこの2チームが対戦した。
試合内容は、実に単調な試合だった。
観戦中、意識を失ったことを覚えている。仕掛けがなく、面白みがないのだ。
甲子園に出場している、近年の両チームを知らないが、
試合運びが上手くいかないときに、「無抵抗」で負けるだろうと予想した。
その予想通り、次戦、勝利した専大松戸が、拓大紅陵に「無抵抗」で敗れた。
これは、結果論で言っているのではない。
長期間に及ぶブランクを埋めるため、両チームの監督を調べた。
共に、長が着くベテラン監督だった。
「豪快さの中に緻密さのある野球を」-相川敦志
相川敦志(東海大望洋高校野球部監督)

縦じまのユニフォームの歓喜の輪がマウンド上にできた。ダグアウト前、その光景を見つめる東海大望洋高校の相川敦志監督の目元がゆるんでいく。涙が止まらない。
「これまで、相手チームがマウンドに集まっていく光景を見せられてきたんです。それが、ついにうちのチームが。子どもたちの喜ぶ姿を見たら、もう涙をこらえることができませんでした」
夏の全国高校野球選手権の“戦国”千葉大会の決勝である。東海大望洋は過去、決勝で3度、零敗していた。それが、この日は打ちまくって、専大松戸を13-2と圧倒した。『打撃のチーム』の面目躍如だった。
「きょうは過去の(決勝の)3試合分の点をとりましたね」
53歳の相川監督にとっては、特別な夏かもしれない。指導者としての教えをもらっていた原貢さんが5月、天国に召された。原さんは東海大相模高校、東海大と監督を歴任した名将。「豪快さの中にも緻密さがある野球をされていました」という。
「東海って、“打て、打て”“振れ、振れ”の野球ですから。原さんも昔は“打て、打て”だったのですが、10年ほど前から、“点をとれる時にはきっちりとっていけ”と。打つということを目標にしてきましたが、ワタシもスクイズなど細かいプレーもやらせていただきました」
相川監督は打撃力をアップさせるため、からだ作りから、栄養バランス、バットの振り込みを重視してきた。実は東海大望洋は野球部の寮がない。全員、自宅からの通いだ。そのため、体調管理は生徒自身に任せることになる。生徒や保護者向けの栄養学の講習会なども実施してきた。
「生徒たちの意識が高くなった。プロティンを自分で飲んだり、体重アップを図ったりするようになりました」
東京都出身。東海大浦安―東海大の野球部で活躍し、卒業の1984年、東海大浦安の野球部コーチとなった。87年4月、東海大望洋に赴任し、野球部監督になった。
10年、春のセンバツ大会に出場した(1回戦で敗退)。その後、野球部内の暴力の発覚を受け、一時、監督を退いたこともある。生徒たちと一対一の面談を続けるなど、こつこつと部の再建を図ってきた。
モットーが『栄光に近道はなし』。「頂点をとるためには近道はない。そう思って、ワタシは生徒と一緒に地道にやってきました」。メガネの奥の目はやさしい。
いざ、念願の夏の甲子園へ。
「なんとか、まず1勝をあげたい。甲子園で校歌を歌いたい。うちは豪快さもあるし、緻密さもあります。ピッチャーがしっかり投げて、野手が守って、打線がいつも通りに打ってくれれば……」
天国の原貢さんが見守る中、相川監督は“豪快&緻密な野球”で夏の甲子園に挑もうとしている。
<コメント>
2010年選抜:大阪桐蔭9-2
2017年選抜:滋賀学園6-2
2014年夏:城北5-3
甲子園未勝利
早い段階から食トレを取り入れている。食トレでは千葉をリードしているのではないか。
2019年部員数109(女子6)
原貢氏+「豪快さの中にも緻密さがある野球」
だそうだ。
秋の観戦からは「緻密さ」は感じられていないのが現状だ。
--------------------------------
専大松戸とは、現役時代に、練習試合を含めて3度対戦しました。
今は専用球場を持っているようです。
長い年月を経て、昨年春準決勝、木更津総合戦を観戦しました。
ロッテに入団した横山投手がつけいる隙を与えず、8-1(8回コールド)で快勝した試合です。
劣勢の木更津総合は、翌日の関東大会出場権を賭けた3位決定戦に備え、
去年観戦した3試合の印象は、良いときと悪いときの差が大きいことです。
2015年11月17日(火)
千葉・専大松戸高野球部監督 持丸修一監督インタビュー
人間的なもの培わせたい “やる気”待ち 信頼見つける
-チームづくりの秘訣は。
高校野球といえば甲子園だけど、甲子園の向こうにあるものの方が大切だと思っている。みんな途中で野球は絶対にやめなくちゃいけない。やめた後の人生の方が長いので、人間的なものを野球で培わせたいという思いがある。
-そのような考えに至ったきっかけは。
甲子園に行けないと駄目だっていう風潮を、子どもたちが自覚するようになってしまった。そんなの一つも駄目じゃないだろう、お前ら何のために野球やってるんだ、という思いから、考えが変わった。高校の3年間、甲子園出場っていう非常に確率の低いものを目指してやっていくっていうのはすごい精神力。だから負けたからって批判することはおかしい。頑張ったなって称賛するのがわれわれの仕事だと思う。
-指導方針は。
とにかく子どもたちがやる気になるまで待つ。やろうっていう意識を持った選手から、より良い選手になるための指導をする。(昨秋から)1年間やったのは、100メートルダッシュを10本やらせること。本当に10回全力で走ったか、どこかで力を抜いたかは本人しか分からない。そういうところに子どもたちとの信頼を見つけ出した。
これまでは心のどこかに僕が何とかしないとっていう思いがあったけど、監督が勝たせてやるなんていうのはおこがましかったんだと本当に思った。生徒を信じるってこんなにやさしいことなんだと。だから今夏の大会ではほとんどサインを出さなかった。好きなように打て、と。
-茨城と千葉の高校野球の違いは。
まず学校数が違う。(甲子園に行くためには)茨城は7回(勝たないといけない)。千葉は8回。でも、その下には100校くらい差がある。茨城にいるころは1回多く勝つだけだと思っていたけど、100校を相手にしているんだって千葉に来て思い知らされた。
甲子園に行ける可能性がある学校が茨城よりもいっぱいある。茨城は限られている。だからいい選手がそこへ集まってしまう。
-茨城で監督をしていた時代を振り返って。
楽しかった。県南地区の監督全員で毎年、温泉地に1泊旅行したり、野球の試合が終わるたびに反省会と称して飲みに行ったり。もう、この世代で健在なのは僕と木内(幸男・常総学院高前監督)さんだけだけど。
*私の中学時代の同期が、木内監督が指揮する高校に進み、甲子園に出場しました。もう一人甲子園で活躍した同期がおります。私も結局は野球を続け、強豪校に挑むことが目標になっていきました。
-常総学院高について。
木内さんとは仲が良かった。(監督が)佐々木さんになる前にクッションになるつもりだった。10年やろうなんて思わなかった。
-十数人の教え子が県内で監督として活躍している。
それぞれが僕に近い考えを持ってやってくれている。生徒の進路のことで相談を受けることもあるけど、ちゃんと子どもたちのことを考えている。(自分が)4校で甲子園に行ったとか、専大松戸高で甲子園に初出場したとかよりも、後輩がそういう風に子どもたちに教えているっていうのはうれしい。
-今後、茨城で監督をする考えは。
野球はもうここ(専大松戸高)でやめると思う。茨城に戻ったら(甲子園に行くまでに)教え子と必ず当たることになるんだから。でも、これが一番自慢。自慢で、幸せ。
持丸修一(もちまる・しゅういち)
1948年4月17日生まれ、笠間市出身。竜ケ崎一高-国学院大。取手市在住。66年夏、竜ケ崎一高の選手として甲子園に出場。監督としては90、91年夏に同校、2001、03年春に藤代高、05年春、06、07年夏に常総学院高、15年夏に千葉・専大松戸高で甲子園出場。監督として率いた全ての学校を甲子園に導いた。
*2つ前の記事で取り上げた、「公立校の名将」蒲原弘幸氏に匹敵する実績です。
茨城・高校野球を牽引してきた名将のお一人です。
>66年夏、竜ケ崎一高の選手として甲子園に出場
○6-5 興南
●1-9 報徳学園
>監督としては90、91年夏に同校
90年夏
○3-1 大野
●1-3 松山商
91年夏
○5-4 益田農林
●3-4 星稜
>2001、03年春に藤代高
2001春
○1-0 四日市工
●1-3 仙台育英
2003春
○2-1 駒大苫小牧
●1-6 徳島商
>05年春、06、07年夏に常総学院高
2005春
●5-6 市和歌山商
2006夏
●8-11 今治西
2007夏
●3-5 京都外大西
2015夏
●専大松戸2-4花巻東
*竜ケ崎一と藤代高監督時代の4回は、全て初戦を突破している。
度々見かける「甲子園で勝てない」という一部ファンのレッテルは、
常総学院時代に張られたものだと分かる。
公開日:2015/07/28 07:00 更新日:2016/10/17 04:37
26日の千葉大会決勝で習志野を7-3で下し、春夏通じて初の甲子園出場を決めた専大松戸の持丸修一監督(67)がこう言った。
節目の年に勝てたのはもちろん、持丸監督にとって今回の甲子園出場はまさに「感無量」だったのではないか。持丸監督は野球部監督として竜ケ崎一、藤代を甲子園に導いた茨城県の県立高校教諭だった。監督でなく教員に専念させられそうになったのが嫌だったこともあって、03年に木内幸男監督の後ガマとして常総学院へ。木内監督の推薦もあったらしい。
野球部監督として思う存分、腕を振るえる環境を手に入れたものの、07年夏の甲子園初戦で京都外大西に敗れると、木内元監督から「真面目な優等生野球じゃ勝てるわけがない」とバッサリやられた。「監督失格」の烙印を押され、常総学院時代は甲子園で1勝もできないまま監督の座を退くことになった。
「100周年の大会で優勝旗を持ち帰ることができたのは感無量です」
26日の千葉大会決勝で習志野を7-3で下し、春夏通じて初の甲子園出場を決めた専大松戸の持丸修一監督(67)がこう言った。
節目の年に勝てたのはもちろん、持丸監督にとって今回の甲子園出場はまさに「感無量」だったのではないか。持丸監督は野球部監督として竜ケ崎一、藤代を甲子園に導いた茨城県の県立高校教諭だった。監督でなく教員に専念させられそうになったのが嫌だったこともあって、03年に木内幸男監督の後ガマとして常総学院へ。木内監督の推薦もあったらしい。
野球部監督として思う存分、腕を振るえる環境を手に入れたものの、07年夏の甲子園初戦で京都外大西に敗れると、木内元監督から「真面目な優等生野球じゃ勝てるわけがない」とバッサリやられた。「監督失格」の烙印を押され、常総学院時代は甲子園で1勝もできないまま監督の座を退くことになった。
その年の暮れ、千葉の専大松戸の監督に。就任9年目にして、ようやく甲子園出場を果たした。
この日の決勝で満塁本塁打を打った4番兼エースの原は、プロ注目の大黒柱。「常総学院に迎えてくれたのが木内さんなら、追われたのも木内さんのひと言がきっかけという話もある。恩人と思っていた分、反動は大きかった。常総は今回、茨城予選で敗退、自分はやっと桧舞台で指揮を執るチャンスに恵まれた。持丸監督は何とか木内さんを見返してやろうと意欲満々さ」とはさるアマチュア担当記者だ。
<コメント>
捏造「サイン盗み疑惑」騒動でも、度々問題視した、下流ゴシップ誌ゲンダイの記事であることに留意する必要がある。
この記事での持丸監督の発言は、
「100周年の大会で優勝旗を持ち帰ることができたのは感無量です」
しかない。
>さるアマチュア担当記者
という訳の分からない輩の発言で構成されている。
この記事が起点となって、情弱に植え付けられた「甲子園で勝てない」が規制事実化されたのだろう。
木内さんとは仲が良かった。(監督が)佐々木さんになる前にクッションになるつもりだった。10年やろうなんて思わなかった。
が事実であり、大きくは、ショートリリーフだったが真相だろう。
いずれにしろ、持丸監督が、標準的「強豪私学」を志向していることはない、と結論づける。
長い指導経験から来る達観がもたらした、
>生徒を信じるってこんなにやさしいことなんだと。だから今夏の大会ではほとんどサインを出さなかった。好きなように打て、と。
が、
時に「無策」に見えるのではないか。
いずれにしろ、習志野が脈々と受け継いできた「緻密な野球」とは対照的である。