「サイン盗み疑惑」の真相

習志野がしたとされる「サイン盗み疑惑」に特化したブログとしてスタート。その真相を明らかにした。< 続章>「サイン盗み疑惑」の真相は、朝日新聞を筆頭とする在日集団による捏造事件でした。甲子園を「良識ある高校野球ファン=日本人」が、将来の子供達の為に取り戻さなければなりません。<3章>高校野球の正常化には、『政治』の正常化が欠かせません。在日集団=NWO勢力(WEFのパペット)に侵された「現実」に踏み込む。<4章>に向けた準備期間として「力」を貯めています。(国際政治を取り上げる構想を棚上げ中)

4度目の土手(銚子商業G)訪問

www.hb-nippon.com

記事抜粋;

関東地区の高校野球では各県の春季県大会が終わり、夏へ向けて練習試合を重ねていく段階に入っている。その練習試合でのテーマは、夏のメンバーを決めるための選考や、新戦力を試すなど、学校によってそれぞれ異なる。

 千葉では、この春の結果、夏のシードを獲得した千葉学芸も、この5月の時期にいろんな選手を試しているという。高倉監督はこう語る。

「春の大会では3年生が中心でしたが、この5月の時期では1、2年生を起用して、良い選手を発掘する時期だと思います」

 

<コメント>

4/23の敗退(対市立船橋)から1ヶ月が経過しようとしている。

敗因の一つが、選手層の薄さにあることは幾度も述べてきた。

そして、そこに至る最大の問題点は、選手ではなく、マネジメントにある。

改善に向けた動きはあるのだろうか。

 

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5/2、市立川越と練習試合。

 

5/13、主力組が出場する1試合目に、

>いつもと違うメンバーが

出場した、らしい。

 

関連;

2023/05/10(水) 10:28
1年の田中は夏にベンチ入り確実だな
つーかレフトのレギュラーでもいいくらい
長田弟も内野控えで入れるかな

 

田中(千葉北S)は今のところA戦2試合目に1番センターで出てるけどほとんどの試合でマルチヒットじゃないかな
そろそろ1試合目に出て各校エースにぶつけてみたい
そういえば田中と一緒に千葉北Sのエースも来そうだったのに土壇場で日本航空石川に持って行かれたらしいな

 

<コメント>

これが事実ならポジティブな動きだ。

が、具体的な情報が

>A戦2試合目に1番センターで出てる

>1年の田中

しかなく、

期待される

>新戦力を試す

起用をして、

チーム内競争を呼び起こし、選手層の厚み

マネジメント層(指導者)が志しているのか分からない。

 

>「春の大会では3年生が中心でしたが、この5月の時期では1、2年生を起用して、良い選手を発掘する時期だと思います」

 

 

比較;

ファン目線も意識して、練習試合の結果を刻々と伝えている「 城西大城西硬式野球部」公式アカウント。

好感が持てる。

 

2002年(平成14年):第84回全国高等学校野球選手権大会出場

「栃木県立小山西高校野球部【公式】」アカウント;

 

 

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土手(銚子商業G)まで100kmを超える行程のため、事前に確たる情報が欲しかったが、今後を含めて見込みなしと判断した。

空振りを想定して、銚子観光をセットすることにした。

・ 玉崎神社(下総国二宮)

 

摂社に、八重垣神社(右)

他にも金刀比羅宮など素戔嗚尊とその御子神(饒速日命)を祭神とするものがある。

素晴らしい古社だったが、祭神と由緒が書き換えられたことが丸出しとなっている。

 

・ 刑部岬

・ 屏風ヶ浦

・ 円福寺本坊 大師堂

 

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5/20,14:00-土手に到着した。4度目となる。

① 2021/5/4 市立船橋

② 2022/6/13 大宮東

③ 2022/11/5 空振り(遠征試合)

 

校門をくぐった段階で、練習試合が行われていないことが分かった。

結論から言うと、Aチームは茨城・県南地区に遠征していた。

 

居残り組は29人。おそらく外部コーチ1人。

ティー打撃、キャッチボール、シャドウピッチングなど「自主練」の風情だ。

スケジュールは、今後も遠征試合Onlyとのことだ。

残念ながら、観衆はゼロで、事情通から詳細をお聞きする機会はなかった。

同じ思いで来たのだろう。入れ替わりで千葉ナンバーのファンが去って行った。

 

筆者が注目している2年生の大型左腕がいた。

そのボールを受けていたのが、おそらく1年生の投手だろう。

「うわー速くて怖い」

1年生投手がボールをキャッチできないほど、力を込めた投球を数球していた。

もてあましているのだろう。つまり、大型左腕は、怪我をして居残っているわけではない。

滞在時間は、「連れもいたので」30分程度だったため、14:00到着前およびこの後どういう練習をしたのか不明だが、

才能ある選手が29人もいるのだから、他にやることがあるだろうというのが率直な感想だ。

例えば、投手の「制球力向上」などだ。

初めて間近で観たが、文句なしの逸材ではないのか。面構えも良い。

個人的に確認したかった事項の筆頭は、

故斉藤俊之氏、故尾上旭氏と同期だったエース・神原氏の投手コーチ就任が実現したかだった。その話(噂)は流れた、ようだ。

 

吹奏楽部の男子生徒1人による、力の入ったトランペット(若松)の演奏練習の音が響き渡っていた。

 

 

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春季関東大会2日目;

 

僅か2週間程度で、県大会で浮き彫りとなった課題を修正してきた

五島監督のマネジメント力が際立つ結果ではないだろうか。

一例:県大会で失敗が目立った犠打の精度向上

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県大会登録外の三富(3年生)が、6⑨で先発出場した。

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5/24追記;1年生庄村を関東大会でも使い続けた結果;

 

県大会緒戦を観た感想

木更津総合;秋、専大松戸、春、流経大柏

投手力の上積みは感じられなかった。

送りバント偏重のスタイルは変らず。

新1年生2人を起用したが、緊張からか地に足が着いていない状態。

 

出場試合(経験値)流経大柏、幕張総合、東京学館、 中央学院、専大松戸、慶應義塾、昌平

 

 

 

春季千葉県大会の結果を受けた、夏の大本命に対する「対抗馬」は? 習志野、木更津総合 、拓大紅陵 、東京学館 、中央学院 、千葉黎明 、市立船橋、銚子商業 、八千代松陰 、成田

5/7、関東大会出場校が確定した。

 

 

ハイライトは、秋関に続く連続出場高

(明和県央(群馬2位)も連続出場)

東京(波乱あり)を除く関東各県は、ほぼ波乱無く、秋関との連続出場が目立つ。
センバツ出場校は、無傷となった。

千葉にフォーカスすると、期待されていた一冬の上積みの有・無がはっきり分かれ、

上積みのあったチームも、専大松戸に遠く及ばず

その専大松戸が、夏の揺るぎない大本命となった。

2019年から観戦をスタートした筆者には、初めての事態だ。

 

各校の練習施設;

www.youtube.com

 

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残念なことがある。

往古の銚子商業を知り、現在の銚子商業を土手で見守り、復活に向けて足りないものを発信していた時折現れる銚子商業ファンがいた用スレが更新される気配がない

数人の粘着している荒らしに辟易としたのだろう。

 

故に、千葉スレを見てみた;

一例

2023/05/07(日) 08:01
専松と市船は現チームは勝負付けは終わってないな。秋平野を最も苦しめたのは市船。

 

かなり差は開いてるよ。銚子商の方が強かった。
習志野と木更津総合がコールドゲームだからっつて出てくるタイミングが分かりやすいよ

 

市船は春は試しながら試合重ねてた節がある。ベストメンバーになれば銚子商はコールドで倒すぐらいの力差はあったよ。

 

銚子商業戦はベストメンバーだったよ。打線はその日によるとしても投手陣みたら習志野や木更津総合と同じになってたよ。

 

<コメント>

客観的に物事を見ようとせず、贔屓チームを上に見せたい数人の連続投稿が目立つ。

根拠は、内容ではなく、得点差のみ

その結果、市立船橋と拓大紅陵を推す声があるようだ。

 

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興味深かったTwitterでの投稿;注/銚子商業

 

私見;

◎専大松戸
◯習志野

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△:一冬の上積み有

▲:一冬の上積みが極めて限定的 


▲木更津総合
△拓大紅陵

△東京学館

△中央学院

▲千葉黎明

▲市立船橋

 

ノーシード;
▲銚子商業

▲八千代松陰

▲成田

 

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秋のレギュラーと、春の登録メンバー(25名となり、+5名の余裕が生まれた)から見えてくる一冬を越えた戦力アップ;

 

▲木更津総合

1年生の起用が飛び抜けて多いため、秋のレギュラーが干されている印象を持っていたが、実際は、秋の専大松戸戦のメンバーが主体となっていた。

秋、5⑦で出場していた三富選手が登録外になった程度だ。

秋#1だった伊藤海翔が、センターにコンバートされた。

 

つまり、選手登録25名(+5)を活用したに過ぎない。

流経大柏、中央学院戦を観戦し、東京学館、専大松戸戦を動画でチェックした。

スコア的に接戦を制したが、

率直に言って、最大の武器は、積み上げてきた木更津総合という看板だ

顕著な上積みは、主戦投手・千葉(2年生)の球速アップ(142K)だったが、専大松戸に苦もなく攻略された。

希望は、#1石澤投手(2年生)を、その専大松戸に隠したことにあるのだろうが、千葉投手同様レベルアップが必要だろう。

 

夏(甲子園)に向けた、春季大会の位置付け(2005年~);

甲子園出場校

2005年銚子商業⇒春、ベスト8

2006年千葉経大付属春、準々決勝に到達せず

2007年市立船橋春、準々決勝に到達せず

2008年(東)木更津総合春、関東大会優勝

   西)千葉経大付属春、準優勝

2009年八千代東春、準々決勝に到達せず

2010年成田⇒春、準々決勝に到達せず

2011年習志野春、関東大会優勝

2012年木更津総合⇒春、ベスト4

2013年木更津総合⇒春、ベスト8

2014年東海大望洋⇒春、ベスト8

2015年専大松戸春、優勝

2016年木更津総合⇒春、ベスト8

2017年木更津総合⇒春、ベスト4

2018年(東)木更津総合春、優勝

   (西)中央学院⇒春、準々決勝に到達せず

2019年習志野春、優勝

2020年中止

2021年専大松戸春、関東大会優勝

2022年市立船橋春、優勝

*4大会連続で、春の県大会優勝or関東大会優勝チームが、その勢いのまま夏を制覇している。一方で、夏Cシードorノーシードのチームが、夏を制覇した例が5回ある。

上記の通り、夏までの2ヶ月でレベルアップを遂げ、本命でない状態(春ベスト8~ベスト4)で4度夏を制覇している。関東大会出場というプラス要因もあり、不気味な存在ではあるだろう。

 

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△拓大紅陵

秋#19だった諸星が、#1となった。

秋登録外だった#13松本(2年生)が、検見川戦に5③、専大松戸戦に3③と、中軸を任せられる打者に成長した。

 

拓大紅陵4-5専大松戸3点は、夏というよりも、秋に向けたお試しの八津投手(2年生)からだった。

3回二死満塁のチャンスを救援した#10青野に摘み取られ、以降も菰田の足でかき回した1点止まり。拓大紅陵にとっては、厳しい敗戦(エースを温存している相手には、勝たねばならないポジションにいる)となった。

 

<コメント>

筆が進まなくなった。

スカウティングに強く、近年の実績も申し分ない

が、あと一歩を突破できない。なぜ?

 

最近の戦績を再確認した。

2019年秋⇒準優勝:抽選に恵まれていたと記憶している。関東大会で大敗。

2021年秋⇒準優勝:抽選に恵まれていたと記憶している。関東大会で大敗。

2022年春⇒準決勝:拓大紅陵4-5市立船橋

2022年夏⇒準決勝:拓大紅陵5-7市立船橋(準々決勝:拓大紅陵5-2習志野)

2022年秋⇒準決勝:拓大紅陵3-5成田

 

秋準々決勝 :成田2-1八千代松陰

を観戦していた。

その内容から、拓大紅陵が戦力的に上回っているとみていたが、結果は終始先手を取られ、成田に危なげなく押し切られた。

 

>なぜ?

については、コアな拓大紅陵ファンに委ねたい。

(専大松戸戦の敗戦を「よく頑張った」と受け止めるようなファンではない)

 

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△東京学館

昨秋の県1回戦:東京学館5-1東海大市原望洋を観戦していた。 

(2回戦:東京学館0-5木更津総合

先発投手は、一塁手の染谷だった。

その体型と投球内容を観て、よほど新チームの投手育成に苦労しているのだと感じた。

 

野手は、秋のレギュラーがそのままスライドしている。

変更点は投手で、

秋#1玉井春#25

#10正木⇒#1

#11戸島⇒#10

正木(2年生)と戸島(2年生)が、2枚看板に成長した。

 

東京学館は、あと一歩足りないものがある

 

木更津総合がもぎ取った4死球(5回、6回、7回、8回)は、少なくとも3人は避けていない。観戦者によると、またも五島監督が、相手投手のモーションに3度注文を付けたそうだ。

www.youtube.com

 

昨秋、専大松戸戦

www.youtube.com

 

何が何でも勝ちに行く姿勢は嫌いではないが、程度問題もあるだろう。

善し悪しは別として、上記のような執念も、「あと一歩」の一つだろう。

 

2020年秋(決勝:東京学館4-5木更津総合)の関東大会(東京学館5-6國學院栃木「柄目直人監督」)の敗戦が記憶に残っている。敗因の一つは、「試合前のデータ解析」が完敗だった

追記;

www.youtube.com

 

インスタのDMも駆使してたよなww


詳しくお願いします!

 

 相手と当たった事のあるチームの選手のアカウントをフォローしてDMで相手のことを聞いてたらしい

 

木更津総合という看板に威圧されている結果となっている。

 

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△中央学院 

春に3人の選手がレギュラーを獲得した。

秋#19外野手#2飯山(2年生)捕手

秋#17外野手#3川野、一塁手 4番打者を任せていた

登録外⇒#5森田(2年生)遊撃手

 

選手層が厚く、2年生からの突き上げによるチーム内競争

or

戦略的に、次期チーム(2024年度)での飛躍を狙っている

 

相手チームの自滅に助けられてきた、

中央学院の先発メンバーは、5人が2年生

 

小兵の野球センスが感じられる2年生が主体となっている。

 

東京学館と同じ傾向がある;

対戦成績;

2012年春、準々決勝:中央学院2-3木更津総合

2018年秋、準々決勝:中央学院4-3木更津総合

2019年秋、準々決勝:中央学院0-2木更津総合

2021年夏:準決勝:中央学院3-12⑦木更津総合

2022年春:準々決勝:中央学院1-4木更津総合

 

 

<コメント>

好素材の選手が揃っている。

端的に言って、不安要素は、監督が続けている「研究」内容にある。

相馬監督は大学院でスポーツ心理学を専攻。現在も選手への技術指導はもちろん、モチベーションに変えるためのアプローチなど、研究を続けている。

 

【チェンジ】恋は甲子園目指す球児の妨げか? 恋愛オッケーで心育み、野球に生かす強豪校・中央学院の試み

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日刊スポーツ

恋愛でしかわからない楽しさとか、幸せな気持ち

 

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⇒▲千葉黎明

春に3人の選手がレギュラーを獲得した。

登録外#5平野

秋#17⇒#7平本(2年生)

 

登録外#9鈴木 中央学院戦では、9回代打での出場。

鈴木の代わりに出場したのが、#18秋山(2年生)。4打席4三振。

 

タイブレークとなった東部地区大会銚子商業戦もチェックしたが、青木、河野、菊地を軸とした投手起用に変化はないようだ。

自責点0で5失点している⇒自滅

内容を確認するとタイムリーヒットも出ているが、

投手の暴投送りバントの処理ミスに、複数の内野手エラーが絡んだ失点となっている。

 

3エラーの遊撃手をそのまま使い続けている。

>鈴木の代わりに出場したのが、#18秋山(2年生)。4打席4三振。

話題の中野大地監督(拓大紅陵⇒明治大学、2021/12~)だが、

独特の采配をしているようだ。

 

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連続性があるので

ノーシード;

▲八千代松陰

 

秋、準々決勝:八千代松陰1-2成田

を観戦していた。

成田が八千代松陰の追加点を許さず、8回裏のワンチャンスを活かしての逆転勝ちだった。八千代松陰の先発投手が水谷(135K)。7・2/3回

秋#1の一色(125K)が救援した。1/3回。

www.youtube.com

 

 

・ 秋#11⇒春#1水谷

・ 秋投手登録の出沖が、一塁手にコンバートされた。

・ 投手登録の平野が、二塁手で先発した。

他は、秋のレギュラーがそのままスライドしている。

 

 

千葉県高校野球春季大会in船橋市民 2回裏中央学院二死一二塁と責めるが後続倒れ無得点 2回終了八千代松陰1-0中央学院

 

千葉県高校野球船橋市民 3回裏中央学院 ヒット、死球、ワイルドピッチで二死二三塁と攻めるも4番川野普君外野フライに倒れ無得点。3回終了八千代松陰1-0中央学院

 

千葉県高校野球船橋市民4回表八千代松陰、5番藤平君センターオーバー三塁打、その後の一死一三塁から8番平野君スクイズを決め1点追加。八千代松陰2-0中央学院。たおスクイズの一塁送球が悪送球とはりなお一死二三塁

 

千葉県高校野球船橋市民4回表八千代松陰、後続倒れ1点止まり。八千代松陰2-0中央学院

 

千葉県高校野球船橋市民5回裏中央学院、ヒットとエラーで二死一二塁から3番中村君のタイムリーで1点、更に送球がそれる間に一塁ランナーもホームインで同点。八千代松陰2-2中央学院。ここで八千代松陰はピッチャー水谷君から峰島君へ交替

 

 

千葉県高校野球船橋市民、6回表松陰内野安打、送りバント、内野ゴロの間に二死三塁までいくが無得点。その裏中央学院、6番青木君レフト前ヒット、レフトがもたつく間にセカンドまで進塁、続く7番飯山君の送りバントが内野安打となり無死一三塁から8番村田君のライト前タイムリーで勝ち越し

八千代松陰2-3中央学院

 

千葉県高校野球船橋市民球場、6回裏中央学院が勝ち越したところで八千代松陰ピッチャー交替。セカンドの平野君がマウンドへ

 

千葉県高校野球船橋市民6回裏中央学院、なおも続く一死一三塁からセカンドゴロエラーの間に1点追加。八千代松陰2-4中央学院

二塁手で出場していた平野が救援。そのタイミングで二塁に着いた控え選手がエラーした。

 

千葉県高校野球船橋市民6回裏中央学院、続く二死一二塁からフェア内のキャッチャーフライを落球、二死満塁となるが、後続倒れて追加点ならず。6回終了八千代松陰2-4中央学院

 

千葉県高校野球船橋市民、7回表八千代松陰は四球と送りバントで二死二塁とするが後続倒れて無得点。7回表終了八千代松陰2-4中央学院

 

千葉県高校野球7回裏中央学院、内野安打で出たランナーが盗塁死で結果三人で終了。7回終了八千代松陰2-4中央学院

 

千葉県高校野球船橋市民、8回表八千代松陰、先頭の4番一宮君が二塁打で出たところで中央学院ピッチャー交替。背番号10村田君からセカンドに入っていた背番号6颯佐(さっさ)君へ交替。その後八千代松陰一死一三塁から6番出沖君のタイムリーで1点差

すみません、5番藤平君のヒット、6番出沖君の犠打でした

 

千葉県高校野球船橋市民、8回裏中央学院、丸山君二塁打のあと牽制死、9番森田君ヒットで八千代松陰ピッチャー交替、ファーストの出沖君がマウンドへ。中央学院更に1番颯佐君ヒットで一死一三塁、2盗後申告故意四球で満塁、3番中村君レフト前ヒットで追加点。八千代松陰3-5中央学院。

 

千葉県高校野球船橋市民、中央学院更に続く一死まんるは、飛び出した三塁ランナーが三塁ベースで二塁ランナーと重なり二塁ランナーがアウト。バッターはレフトフライでチェンジ

 

千葉県高校野球船橋市民9回表八千代松陰、先頭の代打濱辺君ヒットで、出塁。一死後2番根木君死球3番次田君のタイムリーで1点差

 

千葉県高校野球船橋市民、9回表八千代松陰4番倒れて二死一二塁、5番サードゴロ悪送球で満塁

 

千葉県高校野球春季大会船橋市民球場第1試合、最後は八千代松陰6番出沖君、ショートフライに倒れ試合終了。しかし凄い試合でした

 

千葉県高校野球春季大会船橋市民球場第1試合、白熱した試合でした。エラーが多かったのが残念

八千代松陰は、記録上エラー5

 

八千代松陰
水谷鑑人136⇒秋135
峰島拓哉134
平野凌大135
出沖駿太131▲

 

<コメント>

前述したが、秋快進撃を続けていた(予選で銚子商業に完勝)八千代松陰の試合がようやく見られるとわくわくしていたことを思い出す。

何かしら圧倒的なものがあるのではないかと想像していたのだ...

 

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▲市立船橋⇒投手力の底上げは感じられなかった

及び

ノーシード;
▲銚子商業⇒球速を142Kまで伸ばした矢澤投手の制球力向上が絶対条件

夏に矢澤が軸となるようなら、充分に上位(ベスト4以上)に食い込む実力はある。

但し、最上級生優先のマネジメントを改めない限り、一時的に好成績を残しても復活とはならない、だろう。選手層の薄さと、チーム内競争が無いことによる、痺れる場面で本来の力を発揮できないメンタルの弱さに直結している。

 

下記を参照して下さい

www.otonarashino.com

 

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▲成田

www.otonarashino.com

 

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◯習志野

銚子商業と同様に、球速アップを果たした小城投手の制球力向上が絶対条件

小林監督の手腕に期待している。

現状の対抗馬は、習志野だろう。

 

 

#千葉県立房総のむら・風土記の丘資料館 リニューアル・オープン・・・『龍角寺古墳群』の主⇒ 印波国造 - 初代神武天皇の皇子(御歳の第一子)「神八井耳命」8世孫の『伊都許利命』を国造に定めた

記紀(神代とされる神話を利用した)の捏造について、その詳細を熟知した上で、関東圏、特に千葉・茨城(畿内から逃れた外物部氏の東国の基盤だった)の神社を巡ってきた。

長期にわたり改装中だった風土記の丘資料館リニューアル・オープンにあわせ、建国史が意図的に欠落させられている、真の日本古代史の一端を掘り下げた。

 

銚子ばやし保存会「愛宕獅子」

 

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神武天皇の即位年について、日本書紀には「辛酉(かのととり)年」とある。

 

辛酉(かのととり、しんきんのとり、しんゆう)は、干支の一つ。

干支の組み合わせの58番目で、前は庚申、次は壬戌である。陰陽五行では十干の辛は陰の金、十二支の酉は陰の金で、比和である。

 

辛酉と革命
西暦年を60で割って1が余る年が辛酉の年となる。

辛酉には革命的な要素があるとされている。

『緯書』(煬帝が禁止。三善清行『革命勘文』(『群書類従』第貮拾六輯 雜部 所収)に「易緯」、「詩緯」の逸文が残るのみ)には、庚申に続いて辛酉も金性であり、辛は陰気であり、人の心が冷酷になりやすいとされている。辛酉年は天命が改まる年とされ、王朝交代の革命の年で辛酉革命という。日本において、辛酉年に改元する理由は政治的変革の防止が目的であり、三善清行により昌泰4年(901年)の辛酉年に元号を「延喜」に改めたことから始まった。前年の庚申年と2年続けて改元が行われることが多く、明治時代になるまで続けられたが、中国では前例がない。

明治時代の学者である那珂通世は神武天皇即位の年代について「革命勘文」の鄭玄の注「天道不遠 三五而反 六甲為一元 四六二六交相乗 七元有三変 三七相乗 廿一元爲一蔀 合千三百廿年」を挙げ、1260年に一度(干支一周の60年(1元)×21元=1260年=1蔀)の辛酉年には大革命があるとし、推古天皇9年(601年)がその年に当たり、この年の1260年前である西暦紀元前660年に神武天皇が即位したとする説を立てた。「革命勘文」の鄭玄の注では1320年と記述されることから、60年×22回=1320年周期説もあり、その場合は辛酉年の3年後である甲子年が革令(甲子革令)の年であり、白村江の戦いの翌年である西暦664年(甲子)を基点として西暦紀元前660年とされる。

辛酉月は西暦年の下1桁が3・8(十干が癸・戊)の年の8月となる。ここでいう月は旧暦月や節月(白露から寒露の前日まで)を適用する場合もある。辛酉日は八専の7日目(間日を除く)である。

 

神武天皇の即位年⇒241年『神武紀元(皇紀)』

神代から続く家系から試算

・ 出雲臣氏(いずもおみし):天穂日命より83代目・千家尊祀

・ 国宝「籠名神社祝部氏系図」:彦火明命=ニギハヤヒ)より82代目・海部光彦

 

つまり、241年以前が、『神代』とされていることになる

 

関連;

千家 尊福(せんげ たかとみ、弘化2年8月6日(1845年9月7日) - 大正7年(1918年)1月3日[1])は、日本の宗教家、政治家。81代出雲国造、出雲大社宮司。神道大社教(1946年出雲大社教に改称)創立者で初代管長、元老院議官、貴族院議員、埼玉県知事(第4代)、静岡県知事(第4代)、東京府知事(第17代)、司法大臣(第14代)、東京鉄道株式会社社長などを歴任した。位階は従二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。

 

概要
出雲大社の宮司を務める出雲国造家に生まれ、神道大社派を創始する。その後、神道大社教に改称し管長に就任するなど[2]、教派神道たる出雲大社教の礎を築いた。元老院議官を経て、第1回貴族院男爵議員選挙にて貴族院議員に選出される。以来、連続4期に渡り貴族院議員を務めた。院内においては、木曜会を旗揚げするなど[3]、精力的に活動した。また、埼玉県知事、静岡県知事、東京府知事を歴任したのち、第1次西園寺内閣にて司法大臣に就任した。  

 

略歴
1845年8月  第79代出雲国造千家尊澄の長男として生まれる
1872年11月 第80代出雲国造となる
1873年1月  信仰団体「出雲大社敬神講」を組織する(同年、出雲大社教会と改称)
1876年5月  出雲大社教院と改称
1878年1月 東京神田の神田神社内に、出雲大社教会東京出張所開設(後の出雲大社東京分祠)
1881年2月 神道事務局の祭神を決定する勅裁が下る(祭神論争の終結)
1882年5月 神官教導職分離令(神官の布教活動を禁止)により、国造職を弟の千家尊紀に譲って出雲大社宮司の職を辞す[4][5]。出雲大社教会を分立して宗教団体「神道大社派」(のち神道大社教)と改称し、初代管長職に就き、本格的な布教活動を始める[5]。
1883年7月 皇室へ御恩貸の請願
1888年6月 伊藤博文の推挙により元老院議官となり、管長職を辞す
1890年7月 貴族院議員となる
1893年8月 文部省唱歌として「一月一日」が官報に告示される
1894年1月 埼玉県知事に就任
1897年4月 静岡県知事に就任、7月に木曜会を結成。
1898年11月 東京府知事に就任
1908年3月 西園寺内閣の司法大臣に就任
1909年3月 東京鉄道会社社長に就任
1911年5月 東京商業会議所特別議員に就任
1918年1月  死去、享年73。爵位は千家尊統(婿養子、実弟の千家尊紀の子)が継承

 

祭神論争
宣長と篤胤
本居宣長は、記紀をもとに「顕事(あらわごと)」と「幽事(かくりごと)」との対立軸を著し、「顕事」とは現世における世人の行う所業(=頂点は天皇が行う政(まつりごと)であり、「幽事」とは目に見えない神の為せる事(=統治するのは大国主神であるとした。

平田篤胤は、宣長の顕幽論をさらに発展させ、顕界は有限の仮の世界であるのに対し、幽界は無限の真の世界であるとし、死者の魂は「幽冥界主宰神」である大国主神によって裁かれ、善なる霊魂は「天津国」へ、悪き霊魂は「夜見国」へ送られるとした。また、素盞嗚命は伊耶那岐命から国土の統治を任された善神であるとして、天照大神が善神であるのに対して、素盞嗚命は悪神であるとの従来の説を否定した。

宣長が出雲を重視しつつも、天照大神→天皇へと繋がる系譜(「天」・「顕」中心、「伊勢」中心)を重視したのに対し、篤胤は、素盞嗚命→大国主神へと繋がる系譜(「地」・「幽」中心、「出雲」中心)を重視した。篤胤の思想は幕末期を経て出雲関係者の中に浸透し、明治期の祭神論争に大きな影響を与えた。

 

国家神道の展開
1870年1月 大教宣布の詔
1871年5月 神職世襲制禁止の布告と同時に「官社以下定額及神宮職員規則等」の布告。
1871年7月 神祇官を神祇省に改組
1872年3月 神祇省廃止、教部省設置
1873年1月 大教院設立
1875年4月 大教院廃止、神道事務局設置
1877年6月 教部省廃止、内務省内に寺社局設置
1881年2月 宮中の祭神を定める勅裁が下される
1882年1月 神官が教導職に就くこと及び葬儀に関わることを禁ずる通達が出される(1884年より実施)


国家神道政策
明治政府は、王政復古・祭政一致の方針のもと、天皇を天照大神より続く万世一系の絶対的権威として国民教化を図るべく、国家神道の整備を進めていた。

1870年大教宣布の詔を発し、神祇官(のち神祇省に改組)がその中心を担った。祭祀(さいし)と教化を担っていた神祇省は1872年に廃止され、祭祀については宮内省があたり、教化の機関として新たに教部省が設置された。教部省は国民教化を担う教導職を養成するべく、大教院を設置したが、神道・仏教間の対立各宗派間の主導権争いによりうまく進まず、仏教側は大教院を離脱、神道側は新たに神道事務局を設立するなどし、大教院は廃止された。  

 

伊勢派と出雲派の対立

神道事務局は、事務局の神殿における祭神として造化三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)(記紀神話冒頭の創作。目的は、天照大神を強引に尊厳にして唯一の皇祖神としようとした。)と天照大神の四柱を祀ることとしたが、その中心を担っていたのは伊勢神宮大宮司の田中頼庸「伊勢派」の神官であった。これに対して尊福を中心とする「出雲派」は、「幽顕一如」を掲げ、祭神を大国主大神を加えた五柱にすべきとした。

「顕と幽、見える世界と見えざる世界、生と死、これら表裏一体である」として、「顕界」の主神たる天照大神と「幽界」の主神たる大国主神を同じく祀るよう主張する出雲派に対し、伊勢派は、天照大神は顕幽両界を支配する「天地大主宰」であり、他の神々はその臣下にすぎないと主張するなど、両派は真っ向から対立。果てには、「出雲派が神代より続く積年の宿怨を晴らさんとしている」「皇室に不逞な心を持っている千家尊福を誅殺すべし」など、様々な風説が飛び交った。

出雲派の主張は多くの神道者・国学者から支持を得、また伊勢派の多い神道事務局内にも尊福を支持するものが出るなど、形勢は出雲派に傾きつつあった。危機感を抱いた伊勢派は、内務省や宮内省などに働きかけ、勅裁を得るべく工作を図った。その結果、1881年2月に開かれた「神道大会議」で、「神道事務局においては、宮中斉祭所に奉斎される天神地祇、賢所、歴代天皇の御霊を遙拝する」という勅裁が下され、これにより祭神論争は伊勢派の勝利として決着をみることとなった。 

 

 

<コメント>

出雲派の主張も、

記紀をもとに

の作られた主張であることに変わりはない。

地味な事績だった大国主神(=大己貴命)壮絶な格上げは、そもそも藤原不比等らが素戔嗚尊の権威を失墜させることが目的だった創作であり、その意味では何とも間の抜けた主張だった。

 

 

出雲大社教の設立
尊福は勅裁を受け入れたが、同時に国家神道とは宗教的見解に基本的相違が存在することを知り、神道事務局から独立した形での教化活動を進めねばならないと考えた。1882年に神官が教導職に就くことを禁ずる通達が出たこともあり、尊福は出雲大社教会を独立して「神道大社派」を設立。国造職を弟の尊紀に譲り、自らは管長として精力的に全国を歴訪し、布教に専念した。  

 

家族・親族
千家家は北島家と並び、代々の当主が出雲国造を務めてきた。出雲大社の宮司や出雲大社教の管長をはじめ、千家家は多くの神職を輩出している。明治に入ると華族に列せられ、1884年には尊福が男爵に叙されている。

伏原宣明(義祖父) - 儒学者。尊福の妻・俊子(1851年生)の父方祖父。俊子の兄に伏原宣足、姉の夫に木下俊愿。
千家尊澄(父、1816-1878) - 千家当主(79代出雲国造)。妻の婦美子は広橋光成の五女。
千家尊紀(弟、1860-1911) - 千家当主(81代出雲国造)。妻の淑子は松平忠和 (島原藩主)長女(庶子)。子は庶子を含め10人以上おり、長男の千家尊統(1885年生)は尊福の五女・一子を妻とし千家当主(82代出雲国造)を継ぐ。五男の千家尊宣(1898年生)は尊福の庶子・厚子(1902年生)の夫。長女の勇子(1892年生)は清岡真彦(清岡公張四男)の妻、庶子の義子(1900年生)は稲川次郎(杉山岩三郎弟)、庶子の千代子(1908年生)は松平忠諒(義母の父松平忠和の孫)の妻となった。[6][7]
千家元麿(長男、庶子) - 詩人。尊福の子は庶子も含め十数人おり、庶子の生母はすべて小川豊(登代)と記録されている[8][9]。豊は両国の料亭「青柳」の娘で、梅崖の号を持つ画家でもあった[9]。
千家鯱丸(三男、庶子) - 第二代出雲大社教管長・千家尊愛の養子に出す予定だったが、1913年(大正2年)4月10日、19歳で玉突き屋の女性山本しづ17歳と新橋行貨物列車に飛び込み心中し世間を騒がせた[10]。
千家哲麿(六男、後に親族・千家忠へ養子) - 厚生省(現厚生労働省)官僚(国立公園運営担当)、造園家
千家紀彦(孫) - ジャーナリスト、作家。厚子(尊福庶子)と千家尊宣(尊紀五男)の子。
千家国麿(玄孫) - 神職。出雲国造84代千家尊祐の長男。
毛利元忠(二女国子の夫) - 子爵[7]
北岡鶴松(三女信子の夫) - 実業家[8]
尾崎洵盛(四女多嘉子の夫) - 陶磁器研究家[7]
藤井厚二(庶子壽子の夫) - 建築家[7]
菅原太郎(庶子極子の夫) - 演劇研究家[7]
藤波言忠(妹奈保子の夫) - 子爵[7]
吉川経健(妹喜佐子の夫) - 子爵[7]

 

栄典・受章・受賞
位階
1884年(明治17年)9月20日 - 従三位[11]
1900年(明治33年)9月21日 - 正三位[12]
1916年(大正5年)8月10日 - 従二位[13]
1918年(大正7年)1月3日 - 正二位[14]
勲章等
1884年(明治17年)7月8日 - 男爵[15]
1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[16]
1898年(明治31年)6月28日 - 勲三等瑞宝章[17]
1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等旭日大綬章[18]・明治三十七八年従軍記章[19]
1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[20]
外国勲章佩用允許
1906年(明治39年)3月23日 - イギリス帝国:ロイヤル・ヴィクトリア勲章コマンダー[21] ⇒嫌な匂いがする

 

 

 

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綏靖天皇(すいぜいてんのう、神武天皇29年 - 綏靖天皇33年5月10日)は、日本の第2代天皇(在位:綏靖天皇元年1月8日 - 綏靖天皇33年5月10日)とされる伝説上の人物である[注 1]。 『日本書紀』での名は神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと)。欠史八代の1人。神武天皇の子(第二子)とされる。

 

略歴
神日本磐余彦天皇(神武天皇)の第三皇子母は事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(日本書紀)[1]。同母兄に神八井耳命多臣等諸氏族の祖)、『古事記』では加えて同母長兄に日子八井命(日本書紀なし、茨田連・手嶋連の祖)の名を挙げる。神武天皇42年1月3日に立太子。

父帝が死去した3年後の11月、異母兄の手研耳命を誅殺。翌年の1月に即位して葛城高丘宮(かずらきのたかおかのみや)に都を移す。同年7月、事代主神の娘で天皇本人の叔母(母の妹)にあたる五十鈴依媛命を皇后として磯城津彦玉手看尊(後の安寧天皇)を得た。即位33年、死去。


神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと) - 『日本書紀』
神沼河耳命(かんぬなかわみみのみこと) - 『古事記』
建沼河耳命(たけぬなかわみみのみこと) - 『古事記』手研耳命を殺したことによる名。
漢風諡号である「綏靖」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる[2]。「綏」も「靖」も「やすらか」の意であり、「綏靖」で「安らかに落ち着く」の意になる。「綏靖」は中国三国時代について書かれた歴史書三国志に由来している。

君其茂昭明德,修乃懿績,敬服王命,綏靖四方。[3]

 

神武天皇76年3月11日に父帝が死去した際、朝政の経験に長けていた庶兄の手研耳命皇位に就くため弟の神八井耳命と神渟名川耳尊を害そうとした(タギシミミの反逆)。己卯年[注 2]11月、この陰謀を知った神八井耳・神渟名川耳兄弟は、神武天皇の山陵を築造し終えると、弓部稚彦に弓を、倭鍛部の天津真浦に鏃を、矢部に箭を作らせた。そして片丘(奈良県北葛城郡王寺町・香芝町・上牧町付近か[4])の大室に臥せっていた手研耳を襲い、これを討った。この際、神八井耳は手足が震えて矢を射ることができず、代わりに神渟名川耳が射て殺したという。神八井耳はこの失態を深く恥じたため、神渟名川耳が皇位に就き、神八井耳は天皇を助けて神祇を掌る忌人(いはひひと)=神祇の奉典者」こととなった[4][1]。

即位後の事績は『日本書紀』・『古事記』とも記載がなく欠史八代の1人に数えられる。

 

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神八井耳命(かんやいみみのみこと[1]、生年不詳 - 綏靖天皇4年4月)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。

初代神武天皇の皇子(第一子で、第2代綏靖天皇の同母兄とされる。多臣(多氏)及びその同族の祖とされる。

 

系譜 
(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)

『日本書紀』によれば神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと事代主神の娘)との間に生まれた皇子とされ、『古事記』でも母親を比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ、大物主神(=ニギハヤヒ)の娘『御歳』 大己貴神藤原不比等ら中臣一族による記紀を利用した悪意に満ちた創作である)とする。

『日本書紀』では、同母弟に神渟名川耳尊(神沼河耳命、第2代綏靖天皇)を、『古事記』では加えて同母兄に日子八井命「第三子、茨田連(まむたのむらじ)等の祖」(日本書紀なし)の名を挙げる。

『新撰姓氏録』右京皇別 茨田連条や『阿蘇家略系譜』では、日子八井命(彦八井耳命)を神八井耳命の子とする異説が掲載されている[2]。

 

墓・霊廟

墓は不詳。『日本書紀』では、神八井耳命は「畝傍山北」に葬られたと記されている[1]。畝傍山の北に所在する八幡神社(奈良県橿原市山本町152)社伝では、同社は神八井耳命の墓の所在地であるといい、古くは「八井神社」と称されたとする。

また、多氏の氏神社である多坐弥志理都比古神社(奈良県磯城郡田原本町)、その末裔の皇別の志貴県主の総社で式内社である志貴県主神社(大阪府藤井寺市)を始めとする諸社で、命の霊が祀られている。

 

後裔
氏族
『日本書紀』では、神八井耳命について多臣(多氏)の祖と記している[1]。

また『古事記』では、意富臣・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・雀部臣・雀部造・小長谷造・都祁直・伊余国造・科野国造・道奥石城国造[5]・常道仲国造・長狭国造・伊勢船木直・尾張丹羽臣・嶋田臣ら19氏の祖とする[1]。

『先代旧事本紀』「天皇本紀」では後裔として意保臣(多臣)、島田臣、雀部造が挙げられている。

そのほか『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている[1]。

左京皇別 多朝臣 - 出自は諡神武の皇子の神八井耳命の後。
左京皇別 小子部宿禰 - 多朝臣同祖[6]。神八井耳の後。
右京皇別 島田臣 - 多朝臣同祖。神八井耳命の後。同条では五世孫に武恵賀前命、七世孫に仲臣子上の名を挙げる。
右京皇別 茨田連 - 多朝臣同祖。神八井耳命男の彦八井耳命の後。
右京皇別 志紀首 - 多朝臣同祖。神八井耳命の後。
右京皇別 薗部 - 同氏。
右京皇別 火 - 同氏。
大和国皇別 肥直 - 多朝臣同祖。神八井耳命の後。
河内国皇別 志紀県主 - 多同祖。神八井耳命の後。
河内国皇別 紺口県主 - 志紀県主同祖。神八井耳命の後。
河内国皇別 志紀首 - 志紀県主同祖。神八井耳命の後。
和泉国皇別 雀部臣 - 多朝臣同祖。神八井耳命の後。
和泉国皇別 小子部連 - 同神八井耳命の後。
和泉国皇別 志紀県主 - 雀部臣同祖。

 

国造
前述のように、『古事記』では伊余国造・科野国造・道奥石城国造・常道仲国造・長狭国造の祖とする。

『先代旧事本紀』「国造本紀」では、次の国造が後裔として記載されている。

 

印波国造 - 軽島豊明朝(応神天皇第15代)の御世に神八井耳命8世孫伊都許利命(いつこりのみこと)を国造に定める。のちの下総国印旛郡印旛郷周辺にあたる[7]。


科野国造 - 瑞籬朝(崇神天皇)の御世に神八井耳命の子の武宇都彦命の3世孫・武五百建命を国造に定める。のちの信濃国小県郡周辺にあたる[8]。
阿蘇国造 - 瑞籬朝(崇神天皇)の御世に火国造同祖の神八井耳命の孫の速瓶玉命を国造に定める。のちの肥後国阿蘇郡阿蘇郷周辺にあたる[9]。
上記のほか、同書では伊余国造には印旛国造同祖敷桁彦命の子速後上命、仲国造には伊余国造同祖建借馬命、阿蘇国造同祖の火国造には大分国造同祖志貴多奈彦命の子建男組命が定められたとされる。

 

印波国造(いんばのくにのみやつこ)は下総国中部を支配した国造

概要[編集]

祖先[編集]

氏族[編集]

丈部氏(はせつかべうじ、)。

本拠[編集]

支配領域[編集]

国造の支配領域は当時印波国と呼ばれた地域、後の下総国印旛郡に相当し、現在の千葉県成田市佐倉市八街市四街道市印西市印旛郡に当たる。

氏神[編集]

[編集]

人物[編集]

子孫[編集]

潮船の 舳(へ)越(こ)そ白波 にはしくも 負ふせたまはか 思はへなくに (潮船の 舳先を越す白波のように いきなり お召しになることか 思いがけないのに)[1]

 

 

人物
『続日本後紀』及び『日本三代実録』では以下の人物が神八井耳命の後裔と記されている。

県主前利連氏益(右京人)[10]
志紀県主貞成・志紀県主福主・志紀県主福依(いずれも河内国志紀郡人)[11]
多臣自然麻呂(右京人)[12]
金刺舎人貞長(信濃国諏訪郡人)[13]

 

神八井耳命を祀る主な神社[編集]

以下は、現在の祭神は神八井耳命ではないが、ゆかりがあるともされる神社である。

  • 大井神社(茨城県水戸市飯富町) ※式内社論社 - 祭神は初代仲国造建借馬命であるが、その先祖である神八井耳命であったという説もある。
  •  
  • 大生神社(茨城県潮来市大生) - 多神社から遷座したという説がある
  • 麻賀多神社奥宮(千葉県成田市船形) ※式内社 - 神八井耳命の裔で初代印波国造の伊都許利命を祀る境外社があり、その墳墓とされる古墳もある。
  •  
  • 飽富神社(千葉県袖ケ浦市飯富) ※式内社 - 神八井耳命が創建したと伝承される。
  • 長谷神社(長谷寺鎮守)(長野県長野市篠ノ井塩崎) ※式内社 - 祭神の「八聖大神」は神八井耳命の孫であると伝承される。
  • 大縣神社(愛知県犬山市宮山) ※式内社 - 祭神の「大縣大神」は神八井耳命の孫で迩波縣君の祖の武恵賀前命であるという説がある。
  • 意非多神社(三重県松阪市西黒部町) ※式内社 - 神八井耳命の後裔の多氏の人々が創建したとされる。
  • 黒田神社(大阪府藤井寺市北條町) ※式内社 - 神八井耳命のかくし廟所であると伝承される。
  • 八幡神社(八井神社)(奈良県橿原市山本町) - 神八井耳命の墓所であると伝承される。
  • 伊予神社(愛媛県伊予郡松前町神崎) ※式内社論社 - 神八井耳命の裔で初代伊余国造の速後上命(速後神命)が祀られる。
  • 健軍神社(熊本県熊本市東区健軍本町) - 神八井耳命の裔で初代火国造の健緒組命(健軍大神)が祀られる。
  • 高千穂神社宮崎県西臼杵郡高千穂町大字三田井) - 祭神の「高知尾(明神)」は神八井耳命の別名であるという説がある。
  • 槵觸神社(宮崎県西臼杵郡高千穂町大字三田井) - 同上。

 

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岐須美美命⇒手研耳命(長子)の妹(末子)

岐須美美命(きすみみのみこと[1])は、日本神話に登場する人物・男神で、初代天皇神武天皇の子である[2][3]。『古事記』中巻に登場し、『日本書紀』には登場しない[2][4]。また、『古事記』でも事績に関する記載はなく、子孫に関する記載もない。

記紀での言及[編集]

『古事記』中巻の「神武記」には次のような一文がある[2][1]

故、坐日向時、娶阿多之小椅君妹・名阿比良比売生子、多芸志美美命、次岐須美美命、二柱坐也。
(大意)(神武天皇が)「日向」(ヒムカ)にいた頃、「阿多」(アタ)の「小椅君」の妹で名を阿比良比売(アヒラヒメ)を娶り、生まれた子が、多芸志美美命(タギシミミノミコト)、岐須美美命(キスミミノミコト)の2柱である[1][5]

一方『日本書紀』巻三「神武天皇紀」には、大筋で同じ内容となる次のような一文がある。しかしこちらには子の名前は「タギシミミ」のみ記されていて、岐須美美命に相当する人物の言及がない[2]

長而娶日向国吾田邑吾平津媛、為妃、生手研耳命。
(大意)(神武天皇は)長じて「日向(ヒムカ)国」の「吾田(アタ)邑」の吾平津媛(アヒラツヒメ)を娶って妻とし、手研耳命(タギシミミノミコト)が生まれた[6]

このほか先代旧事本紀』巻六「皇孫本紀」には神武天皇と吾平津媛の2人の子として「手研耳命」と「研耳命」(キシミミノミコト)の名が登場する[7]。が、巻七「天皇本紀」には登場しない[8]

 

吾平津媛:吾田(阿多)族(南方海洋民)首領の娘

岐須美美命⇒臺與(台与、とよ)(235年 - 没年不明)。伊勢神宮の外宮の祭神豊受皇大神(とようけすめらおおかみ)

 

 

隼人(はやと)とは、古代日本において、阿多・大隅(現在の鹿児島県本土部分)に居住したとされる人々[1]。

概要

日本神話には海幸彦が隼人の阿多君の始祖であり、祖神火照命の末裔であるとされる[2][3]。「はやひと(はやびと)」、「はいと」とも呼ばれ、「(犬のように)吠える人」の意味とも[4]、「ハヤブサのような人」の形容とも[5]方位の象徴となる四神に関する言葉のなかから、南を示す「鳥隼」の「隼」の字によって名付けられたとも[6](あくまで隼人は大和側の呼称)。

風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した。やがてヤマト王権の支配下に組み込まれ、律令制に基づく官職のひとつとなった。兵部省の被官、隼人司に属した。百官名のひとつとなり、東百官には、隼人助(はやとのすけ)がある。現在は、日本人男性の人名としても用いられる。

古く熊襲(くまそ)と呼ばれた人々と同じとする説[7]、熊襲の後裔を隼人とする説(系譜的というよりその独特の文化を継承した部族)[8]、「熊」と「襲」を、隼人の「阿多」や「大隅」のように九州南部の地名であり、大和政権に従わないいくつかの部族に対する総称と解する説などがある。

熊襲とは、日本の記紀神話に登場する、現在の九州南部にあった襲国(ソノクニ)[9]に本拠地を構え、ヤマト王権に抵抗したとされる人々。また地域名自体を表す総称である[9]。古事記には熊曾と表記され、日本書紀には熊襲、筑前国風土記では球磨囎唹と表記される[10]。肥後国球磨郡(くまぐん。現熊本県人吉市周辺。球磨川上流域)から大隅国曽於郡(そおぐん。現鹿児島県霧島市周辺。現在の曽於市、曽於郡とは領域を異にする)に居住した部族とされ[9][10]、5世紀ごろまでに大和朝廷へ臣従し、「隼人」として仕えたという説もある(津田左右吉ら)。

また「熊襲」という言葉は記紀の日本武尊物語などの伝説的記録に現れるのに対し、「隼人」は平安時代初頭までの歴史記録に多数現れる。熊襲が反抗的に描かれるのに対し、隼人は仁徳紀には、天皇や王子の近習であったと早くから記されている[11][注 1]。こうした近習の記事や、雄略天皇が亡くなり墓の前で泣いたなどの記事は、私的な家来であり、帰化したのは7世紀末頃とされる[13][14][12][要ページ番号]が、6世紀末や7世紀初め説もある[15]。文献上の確実な史実として初めて「隼人」が登場するのは、『日本書紀』に見える682年(7世紀後半・天武天皇11年)7月の「朝貢」記事と考えられている[16][17]。

2018年の論文[1]によると、9世紀初頭以降、南九州の住民を「隼人」と呼称する例は、史料上ひとつもみられなくなることが確認されている。よって南九州の人々が隼人と呼ばれたのはわずか120年間ほどのことにすぎないことが指摘されている[18][1]。

隼人は大和政権へ服属後もしばしば朝廷に対し反乱を起こし、大隅隼人などは713年(和銅6年)の大隅国設置後にも反乱を起こしたが、720年(養老4年)に勃発した隼人の反乱と呼ばれる大規模な反乱が、征隼人将軍大伴旅人によって翌721年に征討された後には完全に服従した。793年(延暦11年)8月にはこれまで6年に1度の「隼人の調」を廃した(『類聚国史』隼人条)。これに伴って、一般の公民と同じ調庸に置き換えられて隼人とそれ以外の百姓との間の負担の公平化を図ったと考えられる。続いて800年(延暦18年)には班田収授法が初めて実施された。元来、奥羽両国や薩摩・大隅などの「辺要国」における班田収授が遅れた理由は、班田収授には墾田の収公なども伴うために帰属した蝦夷・隼人を含めた辺要国の「百姓」の動揺を防ぐとともに彼らの墾田を保護した優遇策であった。従って、班田収授法の対象になるということは隼人にも一般の公民と同じ租庸調が課される条件が整えられたことになり、法的意味での「隼人の消滅(=公民化・百姓化)」の完成を意味したと考えられる[19]。

8世紀初め、現在の鹿児島県一帯への移住民は総人口の7分の1に相当する9千人前後と推定され[5]、この推定に従うなら、(総人口6万3千人-9千人前後で)5万4千人前後が在地人=隼人と推定される(本州への移住民は含まず)[注 2]。

古くから畿内に移住させられ、強さの象徴である隼人は宮中で守護に当たる[注 3]ほか、芸能、相撲、竹細工などを行うようになった[注 4][注 5]。特に山城国(京都府)南部に多く定住し[注 6]、大隅隼人の住んだ現在の京都府京田辺市には「大住(おおすみ)」の地名が残る。律令制下においては、隼人司(衛門府、後に兵部省)が、これらを司った。

言語[注 7]・文化に関しては、他の地方と大きく異なっていたとされる[注 8]。特に畿内では、彼らの歌舞による「隼人舞」が有名であった[注 9][注 10]。また平城宮跡では彼らが使ったとされる「隼人楯」が発掘されており、これには独特の逆S字形文様が描かれている(『延喜式』に記述があり、合致している)。

『肥前国風土記』によると、「五島列島の海士は容姿が隼人に似ており、騎射を好み、言葉も俗人と異なっている」という記述がある。また『新唐書』によると「邪古・波邪・多尼の三小王」がいたというが、波邪は隼人のことであろうとされている[24]。その南九州の範囲であるが、熊本県域や宮崎県域、南西諸島の人々が隼人とされた例もまた史料上ひとつも確認されず、鹿児島県本土域の人々のみが隼人であったと考えられる[1]。ただし、鹿児島県本土域においても住民が隼人とはされていなかったであろう地域も想定されている[1]。

 

各地の隼人
阿多隼人(薩摩隼人)
薩摩半島一帯に居住していた隼人。薩摩国設置以前はこの一帯はアタ(阿多又は吾田と表記される)と呼ばれていた。『日本書紀』の682年(天武天皇11年)の記事に記される。薩摩国設置後は、『続日本紀』709年(和銅2年)で薩摩隼人の呼称が用いられる。


大隅隼人
後世、大隅郡(大隅半島北部、特に「大隅郷(現在の志布志市から曽於市大隅町)」周辺か)と呼ばれる地域に居住した隼人。主領域を肝属平野とする集団であるとする説もある[25]。『日本書紀』682年(天武天皇11年)条に記事がある。


その他の呼称
上記2区分の隼人以外にも「日向隼人」や「多褹隼人」「甑隼人」という隼人集団が存在するように解説される場合がある。しかし中村明蔵の指摘するところでは、これらは史料にみえる隼人の個人名を集団名と誤認したことや、地域名称の変更に伴う集団呼称の変更を考慮せずに引用したことなど、史料を読み違えたことで生じた誤りであり、集団名としての隼人区分は阿多(薩摩)隼人・大隅隼人のみとされる[26]。

日向隼人
日向国の隼人の意だが、大隅国が日向国から分立する以前の『続日本紀』710年(和銅3年)条に1度だけ記述される用例で、その内容も「曾君細麻呂」ら大隅地域を基盤とする隼人についてであるため、大隅隼人と同義である。
多褹(たね)隼人
種子島(多禰島)と屋久島(掖玖島)に居住した住民で、702年(大宝2年)には多褹に対して征討軍を派遣して鎮圧する事態になったが、「多褹」や「益救(掖玖)」の語はみえるものの「多褹隼人」との記述は史料上存在しない。
甑隼人
甑島に居住した住人。『続日本紀』769年(神護景雲3年)の条に記事がみえるが、「甑隼人麻比古」と言う個人名の記述であり、集団の区分では薩摩隼人に属する。
なお、この状況について中村は、「隼人の反乱」とかけて「ハヤトの氾濫」と揶揄している[27]。

 

隼人の考古学
考古学的には、古墳時代の鹿児島県・宮崎県境周辺の九州南部に地下式横穴墓などの「地下式墓制」が分布することから、かつてはこれを隼人と関係づける説があった[7][28][29]。

それによると、隼人の墓制は3種類あるとして、薩摩半島南部の「立石土壙墓」を阿多隼人[30]、薩摩半島北部の「板石積石棺墓(地下式板石積石室墓)」を薩摩隼人、そして日向・大隅に分布する「地下式横穴墓」を日向・大隅隼人の墓制にそれぞれ対応させるというものであった[注 11]。

しかしこれら九州南部の地下式墓制を隼人と関連付ける考え方は、1960 - 80年代にかけて隆盛したが、1990年代以降は文献と考古資料の安易な結びつけや、少なくとも飛鳥・奈良時代の「隼人」の概念を古墳時代中期 - 後期の地下式墓制にまで波及させる考え方について地元九州地方の研究者や学会から疑問や批判が強まり[32][33][34]、2000年代以降の考古学・文献史学からは有力な学説と見なされていない(地下式横穴墓・板石積石棺墓・立石土壙墓の項も参照)[35][36][37][38]。なお、隼人が文献上多く登場してくる7世紀後半 - 8世紀代の墓の遺構については、現地九州南部ではほとんど検出されておらず、確実に「隼人の墓」と位置づけられる墓制は、現状では不明といわざるを得ない[39]。

また、南山城地域、京都府京田辺市大住の男山丘陵から横穴墓が多く発見されていることについても、隼人と関連付ける説があった(本来、山砂利を取る地域であり、横穴は掘りにくい地域の為、隼人墓制と対応するとされた)[40]が、考古学上、横穴墓と地下式横穴墓が別物であるうえ、隼人がいた九州南部には横穴墓がほとんど分布しないため、関連性に疑問がある[41]。

 

神話の中の隼人
日本神話では、海幸彦(火照(ホデリ)命または火闌降命)が隼人の阿多君の祖神とされ(海幸山幸)、海幸彦が山幸彦に仕返しされて苦しむ姿を真似たのが隼人舞であるという[注 12][注 13]。

説話の類型(大林太良ら)などから、隼人文化はオーストロネシア語系文化であるとの説もある[42][注 14]。

654年(7世紀中頃)、日向に覩貨邏(通常は西域のトハラ人と解釈するが、現在のタイ・ドヴァーラヴァティとの説有り)の民が漂着した記述がある[46]。

 

人骨から見た違い
南九州における男性人骨の形質は、内陸部と宮崎平野部では異なることが報告されている[47]。内陸部の人々は縄文人・西北九州弥生人に類似し、一方、平野部の人々の中には、北部九州弥生人に類似するグループも存在するとしている[注 15]。つまり、内陸隼人は縄文系弥生人に近いと見られ[注 16]、人骨形質の観点からも隼人には地域差があったと判断される。さらに種子島の弥生時代終末期の遺跡から出土する人骨は、九州島の人骨と比較して、小柄であり、頭蓋変形がほどこされていたと考えられている[49]。

ただし、これら人骨形質からの隼人像の復元については、弥生・古墳時代の考古資料を直接、隼人と結び付けて論じられていた時期(1960年代 - 90年代)の学説に基づき、弥生・古墳時代人骨を基に分析されており[47]、この時代の考古資料を用いての隼人像の復元はできないと断じられた2000年代以降の研究解釈[36][50][38]においては、その妥当性に注意が必要である。

 

隼人系呪術と関連氏族
『延喜式』巻28(隼人司)には、元日・即位・蕃客入朝などの大儀には、「大衣2人、番上隼人20人、今来隼人20人、白丁隼人132人が参加した」と記されており、遠従の駕行には、「大衣2人、番上隼人4人、今来隼人10人が供奉した」とあり、隼人の呪力が大和政権の支配者層に信じられ、利用されていたと見られている[51]。井上辰雄らは、狗吠(犬の鳴き真似)行為や身につけている緋帛の肩巾(ひれ)や横刀が、悪霊を鎮める呪声であり、呪具であった事を明らかにしている[51]。

山川門など境界祭祀を司るとみられる境部(境合部)氏の系統は7氏あるが、この内、大和国宇智郡(現五條市原町おおすみ)境合部は、隼人系と見られ、これを含め、2氏が隼人系とされる[52]。また、『延喜式』巻28大儀の条に「隼人の服装」についての記述があるが、『日本霊異記』(上巻一)に、小子部氏が雄略天皇の勅命により雷を捕えようとした時の姿、「緋(あけ)の蘰(かずら)を額(ぬか)に著け、赤き幡鉾(はたほこ)をあげ」と酷似し、この事から井上辰雄は、隼人は雷神の鎮魂と言う職掌を介して小子部連と結びついていたのではないかと推測している[53]。

宮崎県えびの市島内の島内地下式横穴墓群から出土した計209体の人骨の多くは非常に良好な保存状態にあり、宮崎県立西都原考古博物館に保管されている93体について、赤色顔料の塗布の有無と部位に関する観察が行なわれた[54]。結果、顔料が塗られていた127体の内、顔面のみの塗布が最も多く(38例)、次いで頭部・上半身・下半身のいずれにも顔料を塗布したもの(23例)、それに次ぐのは、頭部と上半身に塗布したもの(11体)となり、顔面塗布が重視された事がわかった。どの段階で塗られたかは諸説あるが、これらの説を紹介した上で、当論文は結論として、第32号墓出土の1号人骨については、白骨化が進みながらも頭髪が残存している段階で塗られたと判断している(再塗とも考えられるが)。他人骨については、直接骨に塗ったとは考えがたいとも示している[注 17]。

 

隼人と関連が指摘される文化
群馬県高崎市長瀞西古墳(5世紀前半)出土の鉄鏃の中に、南九州と近畿を中心に出土するタイプである「二段逆刺鉄鏃」[55]が見られており(1995年時点で群馬県でも2例が確認されている)、かつては隼人と関連する鏃ではないかとの指摘があった[56]。
蛇行剣[57]。「地下式横穴墓」や「板石積石棺墓(地下式板石積石室墓)」から蛇行剣の出土が比較的多いことに由来する。ただし前述のように、隼人と地下式墓制を関連付けて論じられない現在、どの程度有効性のある学説か疑問がある。
日向駒 - 『日本書紀』に推古天皇が「駒ならば日向の駒」と歌を詠んだ記事が見られるが、当時の日向は大隅・薩摩を含んだ地域であり、森浩一は「隼人の馬」を指すものではないかと指摘している[58]。この時代の南九州はまだ征圧が確定的ではない為、内国の馬とは区別視されたものと見られる。また、『新撰姓氏録』には額田部の先祖伝承で、允恭(いんぎょう)天皇第19代の治世、薩摩と戦をしている時、額に「田」という字のつむじのある馬を手に入れ、天皇に献上したので、額田という名を与えられたとの記述があり、隼人の馬である事から、南方に繋がるものとの推定もある[59]。これらの記事からも、隼人の馬が文化的にも内国とは別の扱いを受けていた事がわかる(現在でも、地理的・風土的特色から御崎馬が存在している)。この時代の日向馬が大和に送られたことは遺骸からも判明しており、大阪府四條畷市の蔀屋北遺跡からは全身骨格(体高125センチ、5世紀頃)が出土しており、御崎馬の類と見られている[60]。ただし、この馬の全身骨格については、歯の形状が木曽馬に近かったことも指摘されている[61]。

民族系統
古代史学者の上田正昭によれば、現代日本人の多くの血液型で海外人種と一番近いタイプは中国南部の「湖南型」で[62]、中国東北部の「満州型」や「朝鮮型」とはかなり違うとされる[62]。一方で、指紋型は朝鮮南部に近いとされる[62]。そして九州南部地域は現在でも血液指数、指紋指数が特殊な数値を示す[63]事から、隼人も多少なり、血液・指紋の型は大和とは異なると見られる。
『古事記』には、鵜飼は隼人の文化であるという記述がある。鵜飼は「照葉樹林文化」を特徴づける要素である。したがって「照葉樹林文化」をもった集団が隼人に多分に含まれていたことが示唆される。
歴史学者の角林文雄によれば、隼人はオーストロネシア系民族とする見解がある[64]。
隼人とは、文化的・人種的に独立した固有の民族集団ではなく、7世紀末 - 8世紀当時の律令政府が、律令体制導入の過程で大陸から取り入れた華夷思想に基づいて、古墳時代後期以来、地域的独自性が強く、班田制などの導入が未施行である薩摩・大隅地域の人々を、律令体制外の辺境民(化外の民)として「設定」し、朝貢させる形をとらせた、政治的に創出された「疑似民族集団」と捉える意見もある[65][35][37][17]。

 

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神八井耳命:大和朝廷の全国統一に向けて東奔西走。御子の健磐龍命邪馬台国(やまとのくに)の併合に尽力。

神八井耳命は、岐須美美命⇒臺與(台与、とよ)の異母弟にあたる

 

 

健磐龍命(たけいわたつのみこと、神武天皇即位前14年[1] - 神武天皇93年丙午8月15日[1])は、古代日本の人物あるいは神。景行紀に見える阿蘇都彦命[注 1](あそつひこのみこと)と同一人物とする説がある[2]。

現在は阿蘇神社の祭神として知られ[8]、健磐龍命神[3]、健磐龍神[2]、阿蘇神[2]、阿蘇大神[1]、阿蘇大明神[9]という神号を持つ。さらにのちには阿蘇山の火山神としての性格も備えた。

系譜
健磐龍命の家系については5説がある。

第1は、神八井耳命の第5子とする説[1][2]である。神八井耳命は神武天皇(初代天皇)の第3皇子で綏靖天皇(第2代天皇)の兄であり、天皇の位を弟に譲って神祇を奉典したという[10]。

第2は、神八井耳命の第6子とする説[1]である。

第3は、神八井耳命の孫とする説[11]である。

第4は、神八井耳命の5世孫とする説[1]である。

第5は、神八井耳命の11世孫とする説[12]である。

 

記録
ここでは健磐龍命についての記録を史料別に示す。

日本書紀
『日本書紀』には、阿蘇都彦について次のような記載がある。景行天皇18年6月16日に景行天皇(第12代天皇)は九州巡幸の一環として阿蘇国に到ったが、その国の野原は広く遠く、人居は見えなかった。そこで天皇は「是国に人有りや。」と言った。するとその時阿蘇都彦・阿蘇都媛の二神があり、たちまちに人になって天皇のもとにいたり、「吾二人在り。何ぞ人無らんや。」と言った。ゆえにその国をなづけて阿蘇といったという。ただし、『日本書紀』には阿蘇都彦と健磐龍命を同人とする記録はないことに留意される。

肥後国風土記
『肥後国風土記』にも『日本書紀』とほぼ同内容の記載がある。景行天皇の発言は『日本書紀』と同一だが、二神の発言は「吾二神、阿蘇都彦阿蘇都媛、見(いま)此の国に在り。何ぞ人無らんや。」となっている。

延喜式
延喜式神名帳には、肥後国阿蘇郡の名神大社として「健磐龍命神社(たけいわたつ の みこと の -)」が記載され、現在は阿蘇神社一宮の祭神が健磐龍命である[2]。

この阿蘇神社の創始は、孝霊天皇第7代の9年6月に、孝霊天皇(第7代天皇)が速瓶玉命[15](前述)に勅して健磐龍命を神として祀らせたこととされる[1]。またこの月の26日に勅して阿蘇宮を修造させた[1]ともいう。

また、阿蘇神社は景行天皇第12代が阿蘇を訪れた時(前述)に速瓶玉命(前述)に命じて宮地村に建てたものであるともいう。また、景行天皇18年に景行天皇は健渟美命(前述)惟人命 ( これひとのみこと ) 健磐龍命 ( たけいわたつのみこと ) の孫)」に勅して特に阿蘇神社への崇敬を尽くさしめたともいう[1]。

 

国造本紀
『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、崇神天皇(第10代天皇)の時代に、火国造と同祖で神八井耳命(神武天皇(初代天皇)の皇子)の孫の速瓶玉命が初代阿蘇国造に任じられたという。また、速瓶玉命は、その父健磐龍命の意志を継ぎ、農耕を広めて畜産・植林等にも力を尽くしたという[18]。

 

阿蘇における伝承
以下に『阿蘇郡誌』を基本とした伝承を示す。

健磐龍命は神武天皇即位前14年に神八井耳命の第5子として誕生した。

神武天皇76年に神武天皇(初代天皇)は孫である健磐龍命に西海鎮撫の命を下し、火の国に封じた「筑紫の鎮守」健磐龍命はこの年の2月に山城国宇治の郷から阿蘇に下向した。この途中、宮崎において神武天皇の宮跡にその神霊を祀ったのが宮崎神宮の創祀とされる[4]。そこから延岡にうつり、そこから五ヶ瀬川をさかのぼり御嶽山の麓(御岳村)にしばらく留まり、成君・逆椿・村雨坂などを回った[19]。そして御岳から馬見原に入り、幣立宮を建てて天つ神・国つ神を祭った[19]。そこから草壁にうつり、阿蘇都姫(前述)をめとり阿蘇都彦と号した。そこから阿蘇にうつった。

当時、阿蘇カルデラの内部の阿蘇谷・南郷谷は湖(「介鳥湖」と呼ばれた)であった。健磐龍命は田を造るために湖水を排水しようとした。

そのときに子が生まれたので、その地は産山という[20]。あるいは、生まれたのは健磐龍命の嫡孫で、命を山にたとえて「山が生まれた地」という意味の命名であるともいう[21]。あるいは、生まれたのは阿蘇大神自身であるともいう。

そこから移動した健磐龍命は、排水のために外輪山を蹴破ろうとしたが、峠が二重になっているために破れなかった(二重峠)。2度目は山に隙間があったために成功し、湖水は西の方に流れ出た。「すきまがある」を約して「すがる」とし、以後この場所は「スガルが滝」と呼ばれるようになった。今「数鹿流ヶ滝」と書くのは、数匹の鹿が流されたためである[22]。また、健磐龍命が蹴破った時に尻餅をついて「立てぬ」と言ったことから「立野」の地名ができた[22]。

熊本市の小山と戸島は蹴破られた山の破片であり、菊陽町の津久礼(つくれ)は「つちくれ」の約で土塊が落ちたところであり、合志(こうし)という地名は小石に由来するという。また、大津町の引水(ひきみず)も関係地名である。

なお、健磐龍命は水が引く途中に流れをせきとめていた大鯰を退治したとする伝承[23]も存在する。

なお、阿蘇カルデラ内がかつて湖であって、立野付近の決壊により消滅したというのは地学的事実であり、決壊年代は7万3千年以前と推定される[24]。なお、カルデラの北側では弥生時代の櫂が出土しており、ごく最近まで一部は水域が残っていた[24]。

こののち健磐龍命は自ら矢を射て、それが落ちたところに宮を定めた。これは現在の矢村社の地である。そうして定めた宮の地が、今の宮地の地名の由来である。この宮の近くには、「今村」「西村」「西町」といった集落が形成されたという[25][26]。そののちに健磐龍命は残賊を平定した

健磐龍命は阿蘇一帯を統治して、神武天皇93年丙午8月15日に107歳で薨じた。阿蘇市の阿蘇神社の楼門前には神陵があり、2個の小丘の北が健磐龍命、南が阿蘇都比咩神の陵であるという。

 

その他
健磐龍命は「九州の長官」だったという[4]。
神武天皇は神武天皇76年2月1日に健磐龍命を阿蘇に封じたという[2]。
健磐龍命は神武天皇76年2月に大和国から阿蘇に下向したという[2]。
のちの阿蘇神社の大宮司家(健磐龍命の子孫)が宇治氏なのは、健磐龍命の出発地が宇治であることによると伝えられる[2]。


伝承地
阿蘇大御神御足跡石(南阿蘇村白川西柳)
白川乾藪堂にある巨石で、健磐龍命の足跡が残されている[27]。伝承のみが残り石そのものは失われていたが、平成11年に地元住民により再発見された[27]。

 

 

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令和5年度第76回春季千葉県高等学校野球大会・準決勝 #習志野敗退 ⇒(上々の)Aシード獲得 及び実質5回コールドの決勝戦を受けての感想

5/3、GW5連休のスタートに加え、集客力のある習志野と、センバツ出場校専大松戸の対戦。覚悟を持って出発した。

その覚悟とは、「駐車場」渋滞だ。

1年前の準決勝;

駐車場から16号に出るまでに、前回(4/23)の80分を越える135分を要した。

全く身動きが取れない間、Twitterの反応を観ていたら、たいへん懐かしい且つこのブログを開始する大きなきっかけになった『コアな習志野ファン』の投稿がありました。

 

永遠のライバルが復活した。嬉しい #銚子商業

 

このブログは、銚子商業としのぎを削り、千葉高校野球の歴史を作り上げてきた名門・習志野高校の名誉を守ることを目的にスタートしました。

 

筆者が球場に到着した時(8:40)この状態だった。

 

8:55に席を確保した。

4/22(銚子商緒戦)の記憶もあり、バックネット裏やや一塁側だった。

着席すると、前の3列に50代後半~60代半ばのOB+OG(✖)の集団がいる。

あからさまにどこのチームのファンか丸わかりなのだから、マナーは守った方が良い。

母数が大きいので、一部の不心得者の数もまた大きいのが残念だ。

同窓会の乗りで、遅れてくる仲間の席をキープし、試合開始後、足下のおぼつかない高齢者が空いている席に着こうとすると拒否していた。

その席は、試合終了後まで無人だった。

 

風はやや逆風の2M

 

5/1に150球を投じた、#18小城ではなく、
予想通り、3回戦までの勝利の立役者(勝負強い打撃も)、#1中西の先発だった。

#1中西

 

1回表 専大松戸
    1番 大森 准弥(三)  
1 ストライク
2 ボール
3 ボール
4 ボール
5 四球
ノーアウト1塁大森

銚子商業の2人の主戦投手に対して再三指摘したが、

イニングの先頭打者を四球で出すのは最悪だ。

何らかのリカバリーがないと、高確率で失点となる。

 

    2番 清水 友惺(中)   
1 ボール
1塁走者盗塁死(2-6) 鈴木海捕手のリカバリーに救われた
1アウト走者なし
2 二ゴ

    3番 中山 凱(遊)    中西投手の球速:133K、135、114、132
三振(見逃し)    3アウトチェンジ

 

1回裏 習志野
    1番 藤崎 凌太郎(遊)   
三ゴ    
    2番 寺内 大翔(中)    
遊飛   
    3番 栗山 護一(左)    青野投手の球速:138、129、137、138
死球    2アウト1塁


    4番 佐藤 鷲哉(一)    
P 一塁牽制
1 ボール 避けようとせず、死球にはならず
2 ストライク(空振り)
P 一塁牽制
P 一塁牽制
3 ボール
P 一塁牽制
P 一塁牽制
4 二ゴ
打者アウト(4-3)
3アウトチェンジ

 

 

 2回表 専大松戸

    4番 吉田 慶剛(捕)    
1 ボール 131
2 ボール 131
3 ボール 132
4 ストライク 132
5 ストライク 122
6 四球 114
ノーアウト1塁吉田

2イニング続けての先頭打者四球

失点を覚悟(確信)した


    5番 上迫田 優介(左)    
投ギ    1アウト2塁


    6番 広川 陽大(一)    
1アウト2塁
1 ストライク
2 ボール
3 中安
1アウト1,3塁

感性のある走者なら、悠々とホームに生還できる左中間ヒットだった。

 

7番 太田 遥斗(右)    134、132、131⇒三球三振
三振(見逃し)    2アウト1,3塁


    8番 青野 流果(投)    
死球    2アウト満塁


    9番 宮尾 日向(二)    
1 ストライク 134
2 ボール 132
3 ボール 107
4 ファウル 94
5 右2 2球続けてスローカーブ

専大松戸2-0習志野
1塁走者アウト(9-2)
3アウトチェンジ

 

2回裏 習志野
【守備交代】太田 遥斗→染谷 晃汰(右)

持丸監督が素早く手を打ってきた。

調子の上がらない選手に見切りを付けた。

*5/4決勝ではスタメンとして復帰させている⇒5打数3安打


    5番 根立 陸斗(右)    左打 2年  唯一の2年生の先発メンバー
中飛    1アウト走者なし


    6番 日下 遙琉(二)    
1アウト走者なし
1 ストライク
2 ボール
3 左安
1アウト1塁日下

    7番 成田 悠真(三)    
二ゴ (ヒットエンドラン)   2アウト2塁


8番 鈴木 海偉(捕)   
1 ストライク 139
2 ボール 113
3 ストライク 137
4 ボール 115
P 二塁牽制
5 ボール
6 三振(見逃し) 136
打者アウト(2)
3アウトチェンジ

青野投手がギアを上げた

 

 

3回表 専大松戸

三者凡退

 

3回裏 習志野
    9番 中西 孝輝(投)    
1 ストライク
2 三安
ノーアウト1塁中西


    1番 藤崎 凌太郎(遊)
P 一塁牽制
1 バント空振り
1塁走者アウト(2-3)

まさかのバント空振りで、一走が飛び出し牽制死。

1アウト走者なし
2 ボール
3 左安
1アウト1塁藤崎
 

2番 寺内 大翔(中)   
P 一塁牽制
1 ボール
P 一塁牽制
2 ファウル
P 一塁牽制
3 ストライク
1塁走者盗塁死(2-6)
2アウト走者なし

4 右安
2アウト1塁寺内

3連打で二死1塁というちぐはぐな攻撃となった


    3番 栗山 護一(左)    左打 3年 投手:青野 流果
2アウト1塁
P 一塁牽制
1 ボール
2 ボール
寺内盗塁
2アウト2塁

 

3 ストライク
P 二塁牽制
P 二塁牽制
4 左邪飛
打者アウト(7)
3アウトチェンジ

*専大松戸は徹底的に習志野の足を封じる策を取った。

ここまで、持丸監督采配の圧勝。

習志野は指揮官のタクトに合わせた動きが出来ていない。

 

 

4回表 専大松戸
    4番 吉田 慶剛(捕)   
遊邪飛    
    5番 上迫田 優介(左)   
中飛   


    6番 広川 陽大(一)   
1 ボール
2 ファウル
3 ファウル
4 ボール
5 ボール
6 四球
2アウト1塁広川

無駄な四球。流れが良くならない。


    7番 染谷 晃汰(右)    
中飛    3アウトチェンジ

 

 4回裏 習志野

三者凡退

専大松戸・青野投手は、流れを渡さない。

 

 

5回表 専大松戸
    8番 青野 流果(投)    
1 ボール
2 左安
ノーアウト1塁青野


    9番 宮尾 日向(二)    
捕ギ    1アウト2塁

 

1番 大森 准弥(三)    
1 ストライク
2 ボール
3 ストライク(空振り)
4 左3

専大松戸3-0習志野

1アウト3塁

 

2番 清水 友惺(中)   
1 ボール
2 左安

専大松戸4-0習志野
1アウト1塁清水友


【投手交代】中西 孝輝→高橋 佑輔

#10髙橋(2年生)。整列順から判断すると、習志野NO1の長身。

3番 中山 凱(遊)    
1 ボール
P 一塁牽制
2 ストライク
P 一塁牽制
3 ボール 131
清水友盗塁
1アウト2塁

4 ストライク(空振り) 107
5 ボール 107
6 中飛 131

完璧に捉えられた深い中飛だった。球速が、このレベルでは打ちごろと即断した。
打者アウト(8)
2アウト2塁

 

4番 吉田 慶剛(捕)    
1 ストライク(空振り)
2 ボール
暴投
2アウト3塁
3 ファウル 痛烈な当たりだった。だめ押しで通用しない、と判断した。
4 ファウル 132
5 ボール 111
6 左越本

専大松戸6-0習志野

 

5番 上迫田 優介(左)   
中飛    3アウトチェンジ

 

 5回裏 習志野

三者凡退

 

 

6回表 専大松戸
【投手交代】遠藤 源太→齊藤 陸

#11齋藤(2年生)⇒著しい球威不足

 

6番 広川 陽大(一)    
1 ボール 100
2 ボール 98
3 死球 99
ノーアウト1塁

 

7番 染谷 晃汰(右)    
投ギ    1アウト2塁

 

    8番 青野 流果(投)    
1 ボール 101
2 ボール 98
3 ファウル 99
4 右安 98
1アウト1,3塁広川青野


【守備交代】根立 陸斗→鈴木 翔和(右)
 

  9番 宮尾 日向(二)    
1 左犠

専大松戸7-0習志野

2アウト2塁

 

【投手交代】齊藤 陸→忍 晴也

#19忍

 

    1番 大森 准弥(三)   
2アウト2塁
1 ボール
2 ストライク 106
3 ストライク 107
4 ボール 111
5 右安

専大松戸8-0習志野

ライトからの送球が2バウンドとなり、捕球できず。
2アウト1塁大森


    2番 清水 友惺(中)    
1 ボール 122
2 ボール 124
3 ボール 101
4 ストライク 122
5 四球 101
2アウト1,2塁大森清水友

 

3番 中山 凱(遊)
1 ボール 107
2 ストライク 106
3 ストライク
大森盗塁 清水友盗塁 拓大紅陵戦に続き、ダブルスチールを仕掛けた
2アウト2,3塁


4 ボール
5 ファウル
6 ボール
7 二ゴ
打者アウト(4-3)
3アウトチェンジ

 

6回裏 習志野


    2番 寺内 大翔(中)    
中安    1アウト1塁

 

 

  7回表 専大松戸

三者凡退

 

 7回裏 習志野

三者凡退

ゲームセット

 

<コメント>

スコアを見ての通り、習志野の完敗。

勿論、今回は骨のあるチームと判断して、 2019年以来の習志野らしい野球を見たくて観戦に出かけたのだが、

0-4とリードを拡げられた段階で、「割り切った」と感じられた。

 

例1:2019年 関東大会、習志野2-13⑦山村学園

>選抜準優勝の原動力となったエースの飯塚は登板しなかった。

www.asahi.com

 

例2:2021年 、習志野 2 - 13⑥ 専大松戸

>被安打17・失点13の#1鈴木 颯太を交代させていない。

www.otonarashino.com

 

ざっくり言えば、夏を見据えての捨てゲームだ。

この春季県大会に圧勝した専大松戸に、見せたくない隠し球を残したということだ。

相手先発が、青野投手と読み切っていたはずだが、

これといった策は見えなかった(無かった)。

この点をどう考えるかで、この完敗の意味が変ってくる。

 

詳述した通り、中西投手の後を受けた投手は、かなり厳しい。

主戦投手2人の制球力アップが喫緊の課題だ。

 

 

習志野の小林徹監督は「(専大松戸は)甲子園を経験するチームで、全ての要素でかなうところがなかった」と語った。

 

【高校野球】4年ぶりの春4強…専大松戸に7回コールド敗退も“2つの収穫”を手にした習志野
5/4(木) 11:02配信
春から夏にかけて急成長するのが習志野
習志野高は千葉県大会準決勝で専大松戸高に敗退も、夏へつながる一戦だった

 午前10時の試合開始前から内野席は埋まり、外野芝生席も開放された。千葉県総合SC野球場で行われた千葉県大会準決勝(5月3日)。習志野高は今春のセンバツ8強・専大松戸高に7回コールド敗退(0対8)も、この場に立たなければ味わえない財産を手にした。

 母校・習志野高を指揮する小林徹監督は2つの収穫を口にした。

 まずは、チーム全体としての経験値だ。

「(昨秋の)チャンピオンチームとできたことは、良い機会だった。(この春は)シードにも入れなかったチーム。公式戦が不足していた中で、地区予選から始まって、準決勝まで戦うことができた。甲子園を経験したチームに対して、すべてが力不足。かなうところがなかったので、子どもたちも感じたのでは」

 昨秋は県大会2回戦で市船橋高に敗退(8対9)。守備の乱れが失点につながった反省から、冬場はディフェンス面を見直してきた。キャッチボールから基礎基本を徹底。堅守からスキをなくし、攻撃では少ない好機を生かす伝統のスタイルを積み上げてきた。

 

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予選・学館船橋戦でのシートノック

www.youtube.com

<コメント>

対専大松戸のシートノックをじっくり観ていたが、上記よりもツーランクレベルの高い内容だった。故に、試合に向けた期待値が上がった。

特に目を引いたのは、外野手の本塁送球の精度だった。

山なりの送球は皆無で、どれも低く叩きつけたもので、中継orノーカットの判断も申し分なかった。

一方で、試合では、専大松戸のチャレンジングな本塁突入に対処できない場面が目立った。つまり、実戦での練度が足りていないのだ。

 

追記;

www.youtube.com

改めて記録されていた動画を観ると、

緩く抜けたゴロを想定して、外野手は随分と浅い位置から送球している。

つまり、外野手が強肩揃いといった印象とは違っていた。

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春の県大会初戦(2回戦)では東海大浦安高に11対0(6回コールド)、3回戦では志学館高に6対4で8強進出。準々決勝では昨春王者・市船橋高にサヨナラ勝ちで昨秋の雪辱(4対3)を果たし、持ち味の粘りを発揮した。

 もう一つの収穫は、投手力だ。

 2回戦では右腕・中西孝輝(3年)が6回を一人で投げ、3回戦では中西、右腕・小城知(3年)の継投、準々決勝では小城が9回3失点で完投した。専大松戸高との準決勝では先発・中西が5回途中で降板後は右腕・高橋佑輔(2年)、齊藤陸(2年)と忍晴也(3年)の左腕2人が大観衆のマウンドを踏んだ。

オープン戦(練習試合)で投げるのと、公式戦は違う。2人(中西、小城)に関してはアタマ(先発)から出ていって、どう(最後を)締めるのかを、公式戦の中で見たかった夏に向けては(投手陣は)何枚いてもいい。機会をつくれたのは良かった」(小林監督)

 打線は準決勝で5安打に抑え込まれたが、一番・藤崎凌太郎(3年)、二番・寺内大翔(3年)はしぶとさがあり、三番・栗山護一(3年)、四番・佐藤鷲哉(3年)には力強さがある。二塁手の主将・日下遙琉(3年)がチームの士気を上げてくるはずだ。

 小林監督は勝負の夏に向けて学年に関係なく下(メンバー外)から出てくる子、今のメンバーを脅かすような子が出てこないと。新陳代謝を図る必要があると見通しを語った。

 4年ぶりの春4強。2019年は春のセンバツで準優勝を遂げ、同夏の甲子園も2回戦に進出した。4年ぶりの激戦区・千葉代表へ。毎年、春から夏にかけて急成長するのが習志野高の流れであり、底上げが期待される。

 

 

関連;

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第105回全国高校野球選手権千葉大会
ベンチ入りは20人(全国大会に準ずる)

 

 

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準決勝第二試合;

 

相手チームの自滅に助けられてきた、

中央学院の先発メンバーは、5人が2年生

 

 

対戦成績;

2012年春、準々決勝:中央学院2-3木更津総合

2018年秋、準々決勝:中央学院4-3木更津総合

2019年秋、準々決勝:中央学院0-2木更津総合

2021年夏:準決勝:中央学院3-12⑦木更津総合

2022年春:準々決勝:中央学院1-4木更津総合

 

 

 

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5/4、決勝

 

専大松戸は、夏を吹き飛ばして、新チームの秋を見据えた投手起用だった。

#20八津(2年生)⇒#17梅澤(2年生)

#1平野

 

www.youtube.com

投手交代】梅澤 翔大→平野 大地


    7番 和田 達也(遊)    右打 1年 
1アウト走者なし
1
ファウル
0-1
2
右安


    8番 水戸 洋之介(三)    左打 1年
1アウト1塁
1
ストライク(空振り)
0-1
2
ボール
1-1
3
ストライク(空振り)
1-2
4
中安
1アウト1,2塁

 

<コメント>

2人の1年生が、安打を放った。

1年生の起用が飛び抜けて多いため、秋のレギュラーが干されている印象を持っていたが、実際は、秋の専大松戸戦のメンバーが主体となっていた。

秋、5⑦で出場していた三富選手が登録外になった程度だ。

秋#1だった伊藤海翔が、センターにコンバートされた。

 

つまり、選手登録25名(+5)を活用したに過ぎない。

 

 

 

 

#習志野小林監督 夏を見据えてぶれない采配 秋#1、小城投手150球完投勝利+サヨナラの口火を切る

(4/30は、ゼットエーまで1時間で駆けつけられる温泉宿にいた⇒雨天中止)

 

3回戦で大勝した市立船橋は、不調の野手(+丁寧な送りバントをしない野手)を入れ替えてのものだった。銚子商業戦を観た限り、習志野のポイントは、篠﨑選手(この日2四球)を封じられるか、だった。

同様に、習志野・栗山選手(この日、四球1、死球2)を封じることが、市立船橋のポイントだったようだ。

 

 

 

対志学館    

小城 知    13.50    0 2/3    5    17    4    0    0    0    0    0    0    1    1    0    0

9回に救援登板。4連打を浴びたが、併殺打で切り抜けた。

 

>習志野の投手って最後にあわや逆転サヨナラされかけてた投手がコンスタントに138 /139 投げてて140代も140/141/144投げてたんよねぇ。夏までにもう少し上がれば面白いんだけど。

 

 

 

 

 

3回裏 習志野

9番 小城 知(投)    右打 3年 投手:樋口 聖晃
四球    ノーアウト1塁

 

1番 藤崎 凌太郎(遊)    右打 3年 投手:樋口 聖晃
1 ボール
2 投ゴ(送りバント失敗)
1塁走者アウト(1-6)
1アウト1塁

 

2番 寺内 大翔(中)    左打 3年 投手:樋口 聖晃
P 一塁牽制
P 一塁牽制
1 投ギ
打者アウト(1-3)
2アウト2塁

 

    3番 栗山 護一(左)    左打 3年 投手:樋口 聖晃
死球    2アウト1,2塁

 

4番 根立 陸斗(右)    左打 2年 投手:樋口 聖晃
1 ストライク
2 ボール
3 ストライク(空振り)
2塁走者アウト(2-6-5)
3アウトチェンジ

 

<コメント>

らしさらしくないが混在した。

先頭打者四球で貰ったチャンスを、

次打者が送りバント失敗

が、当たっている中心打者栗山の前に、スコアリングポジションにランナーを進める采配はぶれず、一死から送りバント

市立船橋が警戒している栗山は、ここまで2四死球。

このチャンスに、二走が牽制死

 

 

 

4回裏 習志野

 【投手交代】樋口→福田

4番 根立 陸斗(右)    左打 2年 投手:福田 龍之介
1 ボール
2 ボール
3 ボール
4 ストライク
5 ストライク
6 投ゴ
打者アウト(1-3)
1アウト走者なし

立ち上がり制球が乱れた投手を立ち直らせた。

 

5番 佐藤 鷲哉(一)    右打 3年 投手:福田 龍之介
1 ボール
2 ストライク
3 ボール
4 遊ゴ失
打者アウト(2-3TO)
遊撃手失策(悪送球)
2アウト走者なし

またも走塁ミス

 

 

 

 

 6回裏 習志野

【投手交代】福田 龍之介→稗田 真都

 三者凡退

 

三者凡退

 

 

 

 8回裏 習志野

【守備交代】合津 花道→恒田 和寿(二)

 

8番 鈴木 海偉(捕)    右打 3年 投手:稗田 真都
1 ボール
2 ストライク
3 ボール
4 右2
右翼手失策(悪送球)
ノーアウト3塁

ここまで、1点を争う投手戦

市立船橋は残された攻撃が1イニングのみ。

この失策は、厳しい意味を持った。

 

9番 小城 知(投)    右打 3年 投手:稗田 真都
投ゴ    1アウト3塁

「仕掛ける」と思われたが、そのまま打たせた。

 

【守備位置変更】吉田 有摩(遊→三)
【守備交代】江川 煌人→木内 大智(遊)
【守備位置変更】篠﨑 大耀(一→右)
【守備位置変更】松井 佑(三→一)

市立船橋は、「1点勝負」の守備位置変更。

 

    1番 藤崎 凌太郎(遊)    右打 3年 投手:稗田 真都
1 ボール
2 ボール
3 ボール
4 四球
1アウト1,3塁

 

2番 寺内 大翔(中)    左打 3年 投手:稗田 真都
1 右2
+1 (鈴木海)
1アウト2,3塁

 

3番 栗山 護一(左)    左打 3年 投手:稗田 真都
1 ストライク
2 ボール
3 ファウル
4 ファウル
5 ファウル
6 死球
1アウト満塁

 

4番 根立 陸斗(右)    左打 2年 投手:稗田 真都
1 ボール
暴投
+1 (藤崎)
1アウト2,3塁
2 ボール
3 中安タイムリーヒット
+1 (寺内)
1アウト1,3塁

 

【投手交代】稗田 真都→西片 大翔

 

5番 佐藤 鷲哉(一)    右打 3年 投手:西片 大翔
四球    1アウト満塁


    6番 日下 遙琉(二)    右打 3年 投手:西片 大翔
三ゴ    2アウト満塁
    7番 成田 悠真(三)    右打 3年 投手:西片 大翔
三振(見逃し)    3アウトチェンジ

 

 

 9回表 市船橋
【守備交代】栗山 護一→鈴木 翔和(左)   

 

4番 篠﨑 大耀(右)    左打 3年 投手:小城 知
三振(空振り)    1アウト走者なし


    5番 松井 佑(一)    右打 2年 投手:小城 知
四球    1アウト1塁
    6番 吉田 有摩(三)    右打 3年 投手:小城 知
四球    1アウト1,2塁
    7番 上林 武蔵(捕)    右打 2年 投手:小城 知
四球    1アウト満塁

ここまでの習志野の快進撃を支えた#1中西投手が控えている。

明らかに投手交代のタイミングだろう。


【代打】西片 大翔→伊藤 凛
    8番 伊藤 凛(打)    右打 3年 投手:小城 知
捕邪飛    2アウト満塁


【代打】恒田 和寿→花嶋 大和
    9番 花嶋 大和(打)    右打 1年 投手:小城 知
右安    2アウト満塁 +1点 1 - 3
2アウト満塁


    1番 ハレグザッド ノア(左)    右打 3年 投手:小城 知
1 ボール
2 ストライク
3 ファウル
4 ファウル
5 中2
+2 (吉田,上林)
2アウト2,3塁
【代走】花嶋 大和→森宅 琉偉

投球数も140球を超え、明らかに限界だったように思えた。

目先の1勝に拘らず、小城投手の成長に投資した、のだろう。

 

右投 #18 小城 知 3年
本 日     
回:8 2/3 振:11 四:6 死:2
球:147

 

    2番 田中 淳弥(中)    右打 3年 投手:小城 知
三ゴ    3アウトチェンジ

 

 

 9回裏 習志野
【守備交代】森宅 琉偉→中村 柊太(二)
【投手交代】伊藤 凛→鈴木 大斗


    8番 鈴木 海偉(捕)    右打 3年 投手:鈴木 大斗
三振(見逃し)    1アウト走者なし

 

いくら何でも代打を出すと予想した。

ここまで来ると、その(小林監督の)強靱な意志に感服した。

『続投』の意思表示だ。
    9番 小城 知(投)    右打 3年 投手:鈴木 大斗
1 ストライク
2 ストライク
3 ボール
4 ボール
5 ファウル
6 ボール
7 ファウル
8 ファウル
9 四球
1アウト1塁小城

小城選手が、その期待の応える粘りの打席だった。


    1番 藤崎 凌太郎(遊)    右打 3年 投手:鈴木 大斗
1 ボール
2 ボール
3 ボール
4 ストライク
5 ストライク
6 ファウル
7 三ゴ失
二塁手失策(落球)
1アウト1,2塁


    2番 寺内 大翔(中)    左打 3年 投手:鈴木 大斗
1アウト1,2塁
1 ボール
2 ボール
3 ボール
4 ストライク
5 四球
1アウト満塁


【守備位置変更】木内 大智(遊→二)
【守備位置変更】松井 佑(一→三)
【守備位置変更】吉田 有摩(三→遊)
【守備交代】中村 柊太→金子 侑太(一)


    3番 鈴木 翔和(左)    右打 3年 投手:鈴木 大斗
1 ボール
2 ストライク
3 ボール
4 右安タイムリーヒット

 

 

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www.otonarashino.com

 

 

対戦成績;

 

 

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他の試合結果;

3回二死満塁のチャンスを救援した#10青野に摘み取られ、以降も菰田の足でかき回した1点止まり。拓大紅陵にとっては、厳しい敗戦(エースを温存している相手には、勝たねばならないポジションにいる)となった。

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小枝 守氏(拓大紅陵監督1982~2014/4/26)

<コメント>

2004年センバツ以来甲子園から遠ざかっている(銚子商業は2005年夏)。

「・・・・・・」

銚子商業と同じ問題を抱えているようだ。

⇒チームとファンの間に、緊張関係が無い。往古を知るファンが沈黙しているのだろうか...

 

 

金言;

持丸監督は公式戦で起用する投手の条件として、練習試合で結果を残すのはもちろんだが、ストライクを投げる能力が高い投手が基準八津も練習の中で成長した姿が見えたので、先発になることが決まった。

 

しかし、やはり公式戦初登板で、強力な拓大紅陵打線相手には荷が重かった。3回に3失点目を押し出し四球を与えたところで降板となった。持丸監督は「まだ打たれることを怖がっている。打たれていることは問題ないんです。打たれることを怖がって四球を与えてしまうほうが問題です。でもこれは本人の気持ちしかないんですと八津の奮起を期待していた。素質の高さはチームメートの誰もが認めるところ。ほろ苦い公式戦デビューを力に変えていきたい。

 

 

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東京学館は、あと一歩足りないものがある

 

www.youtube.com

木更津総合がもぎ取った4死球(5回、6回、7回、8回)は、少なくとも3人は避けていない。観戦者によると、またも五島監督が、相手投手のモーションに3度注文を付けたそうだ。

www.youtube.com

 

何が何でも勝ちに行く姿勢は嫌いではないが、程度問題もあるだろう。

善し悪しは別として、上記のような執念も、「あと一歩」の一つだろう。

 

2020年秋(決勝:東京学館4-5木更津総合)の関東大会(東京学館5-6國學院栃木「柄目直人監督」)の敗戦が記憶に残っている。敗因の一つは、「試合前のデータ解析」が完敗だった。

 

www.msn.com

 

チーム内競争の刺激として、早くも新1年生に経験を積ませる木更津総合;

www.youtube.com

木更津総合は、5人の1年生を登録している。

#14川端(投)

 

4人の野手がどのポジションでシートノックを受けているか確認すると、

サードは2人だが、共に緒戦の流経大柏戦に先発した

・ #21庄村:東京学館戦も先発出場

・ #20水戸

つまり、2、3年生は、サードでシートノックを受けていない。

 

#23和田⇒ショート

#25石橋⇒ライト

 

 

比較;

 

公式戦に出場させ2年生(含む1年生)が台頭しているチーム

・ 市立船橋:7人

・ 拓大紅陵:4人

・ 専大松戸:4人

・ 東京学館:4人(主戦投手2人、正捕手、遊撃手)

・ 木更津総合:5人(主戦投手3人、正捕手、三塁手)

・ 中央学院:8人(センターライン:捕手、二塁手、遊撃手、中堅手)

 

比較;

銚子商業:1人

 

<コメント>

秋の新チームで、どこのチームが台頭してくるか、

現時点でも結果が見えている、ように思える。

 

 

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千葉日大第一

失策4: 田中 隼太郎(2回) 丸山 悠斗(5回) 神村 治紀(5回) 谷川 悠大(5回)  
暴投1: 田原 蓮輝(1回)  
盗塁: 谷川 悠大(1回)  
走塁死4: 吉田 遥紀(3回) 田原 蓮輝(3回) 姉崎 律也(3回) 林 晴紀(7回)

 

 

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夏(甲子園)に向けた、春季大会の位置付け(2005年~);

甲子園出場校

2005年銚子商業⇒春、ベスト8

2006年千葉経大付属春、準々決勝に到達せず

2007年市立船橋春、準々決勝に到達せず

2008年(東)木更津総合春、関東大会優勝

   西)千葉経大付属春、準優勝

2009年八千代東春、準々決勝に到達せず

2010年成田⇒春、準々決勝に到達せず

2011年習志野春、関東大会優勝

2012年木更津総合⇒春、ベスト4

2013年木更津総合⇒春、ベスト8

2014年東海大望洋⇒春、ベスト8

2015年専大松戸春、優勝

2016年木更津総合⇒春、ベスト8

2017年木更津総合⇒春、ベスト4

2018年(東)木更津総合春、優勝

   (西)中央学院⇒春、準々決勝に到達せず

2019年習志野春、優勝

2020年中止

2021年専大松戸春、関東大会優勝

2022年市立船橋春、優勝

*4大会連続で、春の県大会優勝or関東大会優勝チームが、その勢いのまま夏を制覇している。一方で、夏Cシードorノーシードのチームが、夏を制覇した例が5回ある。

 

 

勝負師が率いる #習志野 のこれまでの勝ち上がり方 及び今後(3回戦~)の展望

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このブログを開設した当初に、お付き合いのあった習志野ファンはご存じだが、筆者は習志野(小林野球)ファンでもある。

ブログのタイトルをそのままとしているのには理由がある。

習志野が強くなれば、確実に「ある種類の連中(情弱ばかりではない)」が蒸し返しをしてくるのが確実だからだ。

 

昨秋から、習志野戦を観戦していないため、その試合内容を伝えてくれた賢者の投稿をベースに解析してみた。

銚子商業が抱えるチーム作りの課題も明確になるだろう。

 

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昨秋、市立船橋戦の先発メンバー;

1・二    日下遙琉   2年生     京葉ボーイズ 
2・右    寺内大翔    2年生    佐倉リトルシニア(波崎)
3・左    栗山護一    2年生   松戸中央ボーイズ 
4・一    佐藤鷲哉    2年生    八千代ボーイズ
5・中    根立陸斗     1年生    八千代中央リトルシニア 
6・三    渡邉駿弥     2年生     成田リトルシニア
7・遊    藤崎凌太郎  2年生    佐倉リトルシニア 
8・投    小城知        2年生     京葉ボーイズ 
9・捕    鈴木海偉     2年生     流山ボーイズ 

投手リレー:習志野:小城、中西、蓮見、鈴木翔-鈴木海

*鈴木翔和の春県大会での登録は、#9右翼手となっている。

 

<秋季千葉県高校野球大会:市立船橋9-8習志野>◇21日◇2回戦◇千葉県SC

 習志野vs市立船橋と、千葉を代表する強豪校同士の対戦が秋季県大会2回戦で実現した。平日ながら千葉県野球場の内野席は多くの人が詰めかけていた。

 試合は1回裏、4番篠崎 大耀外野手(2年)の3ランで市立船橋が3点先制。4回裏には先発の工藤 将祐投手(1年)の適時打、2番田中 淳弥外野手の適時二塁打で6対0と点差を広げる。

 習志野も5回表に押し出し、6回表には犠飛で1点ずつ返した。習志野の反撃ムードで盛り上がった中、市立船橋は4番篠崎がこの日2本目となる3ランで、9対2と突き放す。篠崎はこの日、6打点の活躍だった。

7回表、習志野も3番栗山護一外野手(2年)の適時打で2点を返し、コールドを阻止。5番根立陸斗内野手(1年)の右前適時打で5対9とすると、6番渡邉駿弥内野手の3ランで8対9へ。

 だが、最後は市立船橋のエース・稗田真都投手(2年)が追う習志野打線を振り切り、市立船橋が3回戦進出を決めた。

 県大会2回戦とは思えないぐらいハイレベルな試合だった。そして負けた習志野も2回戦で敗れるのは、もったいないと思うほど良いチームだった。

 市立船橋、習志野はどの投手も130キロ前半の速球を投げ込んでいた。市立船橋の工藤はまだ1年生ながら、この時期としては、なかなかレベルが高い。ただ、どの打者も早めに始動できる構え、タイミングをしており、コンパクトなレベルスイングで次々と打ち返すことができている。

その中で3ラン2ホーマーを放った篠崎は実に合理的だ。バットを寝かせ気味にして、グリップの位置を置いて構えることで、立ち遅れを防ぐ。さらに小刻みにバットを揺らし、少し体を揺らすことで、体を柔軟にスムーズにバットを振りやすくする狙いが感じられる。

 篠崎自身、この2ホーマーには「驚いています」とコメント。公式戦初めての本塁打で、通算8本塁打目。非常に良さがでていた。主将でもある篠崎について海上監督は「非常に真面目な性格をしていて、今年のチームは彼しかいないと思っていました」とキャプテンシーを高く評価する。確かにスタメンの多くが1年生で、チームの課題についても理路整然と述べる姿を聞くと、海上監督が評価するのも頷ける。

 この試合について篠崎は「まだ連係プレーの部分が疎かになっている部分があり、まだ、周りが見えていない選手もいるので、反省点が多い試合でした」と語る。

海上監督は「バッテリーが1年生で、まだまだ脆さが見えた試合でした。これほど強い相手と対戦できたことは良い経験となりました。今年のチームは去年のチームとは大きくカラーが違いますので、そのカラーをどう出すか考えています」と語るように、カラーを確立させようと試行錯誤している段階だ。

 また、好野手が多く、1番ハレグザッド ノア外野手(2年)は3安打の活躍。実に思い切りがよく、コンパクトなレベルスイングを心がけている。中堅手の田中も守備力も高く、打撃ではパンチ力もある。1年夏から試合に出場している大野 七樹内野手(1年)など好打者が多い。

 甲子園に出場したチームの入れ替わりになると、戦力ダウンは否めないが、習志野戦の戦いぶりをみると、想像以上に選手のレベルは高い。どの選手も試合に出られない間もしっかりとフィジカル、スキルを高めてきたのがうかがえる。

 この秋の県大会前は仙台育英とも練習試合を行った。篠崎は「個々のレベルが非常に高く、こういうチームと対戦できて収穫も大いにあった」と語るように、1つ1つの経験を糧にしている市立船橋ナイン。ますます強くなる可能性を持ったチームだ。

敗れた習志野も、野手のスキルの高さは県内でも上位に入るだろう。得点力の高さや、相手投手を追い詰める戦術は見るべきものがあり、1番〜9番まで力量差はなかった。だが、投打ともに圧倒的な力量を持った選手は見当たらなかった。この1年、そういった選手が出てくるのか、注目したい。

 

<コメント>

習志野はどの投手も130キロ前半の速球を投げ込んでいた

これまで、スピードガン表示のある球場で試合をしていない。

次戦で球速アップが図られたか確認されることになる。

 

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4/8予選、対船橋北

*背番号は、県大会を適用

投手リレー:#10髙橋(2年生)、#19忍(左)、齋藤#11(左)、山谷


野手陣も、秋のレギュラーが顔を揃えた手堅い布陣だった。

東海大相模中出身の#16阿部(2年生)が、6⑤で起用された。

阿部は、次戦でも5番で起用されている。

少なくとも、3人が代打で出場した。

相手は、前・市立船橋監督の櫻内氏だろう。

 

1993年夏、市立船橋初出場

1回戦:2-0三本松

 

 

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4/10予選:対学館船橋

先発投手は、#1中西

野手陣は引き続き、秋のレギュラーで固めた手堅い布陣だった。

 

 

 

既に、習志野が出場した3試合をざっと確認したが、

チャンスに一気にたたみ込めているわけでなく、

二死後の打者がタイムリーを放ち、得点に結びつけている。

つまり、銚子商業のように、チャンスを潰し、残塁を積み上げない。

 

 

中西投手のタイムリー。バッターとしても勝負強い

 

 

 

7回裏 2死12塁から 佐藤君2点三塁打
②成田君 タイムリー

 

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4/23県大会2回戦:対東海大浦安

先発投手は、学館船橋戦に続き#1中西
野手陣は、引き続きレギュラークラスで固めている。

#15根立(2年生は、船橋北戦でも4番に起用されていた。昨秋の市立船橋戦でも中軸の5番で出場。期待されているのだろう。

 

実績のある実力高が、ミスで崩れていくのを何度も見てきた。

強い習志野が戻ってきたのか。

 

二死から得点している。

 

相手ミスを起点とした4得点。

このダメージは大きい。

相手ミスで貰ったチャンスを、走塁ミスでお返しし、チャンスを自ら潰すようではお話にならない、ということだ。

+1-1=0ではなく、悪い流れから敗退に直結する

 

 

 

 

 

既述したが、チャンスを潰し、無得点で残塁を積み上げることがない

投手の中西選手が、(学館船橋に続き)タイムリーヒットで加点した。

メンタルが鍛えられている、のだろう。

日頃から、指導者がこだわりを持って、選手に助言を与えているはずだ

 

 

栗山選手は、送りバント失敗の後、そのミスを帳消しにする走塁をしている。

 

 

 

 

 

下位打線(7番、8番)の連続タイムリーヒット。上位(1番)に回して、更に加点している。

 

#1中西投手の完投勝利。

 

三塁打死球死球で無死満塁。

相手投手がじりじりと圧力を加えられて、決壊していく。

「緻密な野球」

 

投手が中谷君に代わって7番8番共に空振り三振

実は東海大浦安の中谷投手。松戸六実戦でタイブレーク10回裏にリリーフして(リードは1点)無死12塁から六実の1番2番3番を三振に斬って勝利。

だから中西君が打ったタイムリーは大きかった

 

 

<コメント>

習志野は、この春、3試合連続のコールド勝ちのため、接戦を経験していない。

その点は留意する必要がある(かもしれない)。

(そもそもわざわざ接戦にする必要はない。)

 

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夏のシード権を獲得したベスト16が出揃った。

太字:観戦したチーム

太字:春も観戦したチーム

細字:新チームとして未観戦のチーム

市立船橋vs西武台千葉、習志野vs志学館、拓大紅陵vs市立銚子千葉学芸vs専大松戸

東京学館vs千葉北、幕張総合vs木更津総合、千葉日大一vs翔凜、千葉黎明vs中央学院

 

<コメント>
市立船橋;

投手力の上積みは極めて限定的。打は篠﨑頼みという状況。5番大野の復調がないと厳しいだろう。守備は向上していた。

 

野球の質;

市立船橋:海上雄大監督の野球の質(ミスにより失点しても打ち勝つ)は、

小林野球とは異質に映る。

市立船橋高校時代に県3連覇を達成した2年時の1998年夏に、背番号14・外野手で甲子園出場

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千葉学芸;

#1上原投手は制球難。3回で降板した。

救援した四釜は、球速が2年生の時と変化なし。四街道に捉えられていた。

その四釜が、打でも中心だった。

 

四街道の二つのセーフティバント。3番主将の亀﨑選手が2度試みた。

6回、アウトの判定に一塁側観客席から大きなため息が漏れた。

そして9回一死2塁の場面。

筆者はバックネット裏にいたが、2つとも「セーフ」に見えた。

バックネット裏にも関わらずだ。

 

木更津総合;秋、専大松戸、春、流経大柏)

投手力の上積みは感じられなかった。

送りバント偏重のスタイルは変らず。

新1年生2人を起用したが、緊張からか地に足が着いていない状態。

相手の自滅もあり、2イニングで観戦を止めた。

 

中央学院;

磯辺(15名)は、名前負けすることなく、勝ちにいっていた。

目についたのは、磯辺の外野の守備位置の深さ。

おそらくは、予選の戦い振りを知っていたのだろう。

この策が的中した。

中央学院の打者が、パカパカと打ち上げていたからだ。

磯部の宮田投手の術中(80K代のスローボールを織り交ぜた)にはまっていた。

4回まで自由に打たせていたが、5回から送りバントと足を使い出し流れを引き寄せた。

が、同点となった相手ミス(外野の落球)がなければ、更にもつれていただろう。

投も制球難が目立ち、4番手の颯佐(2年生)が締めた。最後の直球の球速は148(or146)Kだった。

 

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試合経過を確認した。

八千代松陰の守備・走塁ミスに助けられた試合だった。

 

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個人的に、注目しているチームベスト4は、

習志野

拓大紅陵

東京学館

千葉黎明

となる。

 

 

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5/1追記;4/29、3回戦

 

 

 

 

 

 

2死満塁となり
9番中西君 2点タイムリー 5-1

 

<コメント>

3戦連続となる、中西投手のチャンスが潰えそうな場面での「二死」からのタイムリーヒット。ワングリップ短くバットを握っている。

実に勝負強い。

この追加点が、後々大きな意味を持つことになった。

 

 

 

 

栗山選手は、中心打者ばかりでなく、隙を突く走塁も秀でている。

 

 

志学館OBによると、大会前に関西遠征している。

昨秋に比べると、のレベルアップが顕著だった。

 

 

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#東京学館 対成田(秋準V) 必然の勝利

県大会の組み合わせ確定後の記事で触れていたが、

4/23、2回戦:成田vs東京学館

に注目していた。

 

>右上の東京学館に注目している。

東部地区大会(東京学館14-15成田)で対戦している。

www.otonarashino.com

 

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貼り付けた過去記事を読めば理解できるだろう。

東京学館が、内に秘めた怒り(他に適当な言葉が思い浮かばない)を消化して、万全の準備をした上で、まさに必勝を期して臨むのが明らかだったからだ。

成田の敗因は、慇懃無礼な尾島治信監督にあったと考えている。

おそらくは、昨秋11/13に一緒に観戦していた、チームを支えている中核の成田OBも、嫌な予感を感じていたことだろう。

 

 

 

比較;東部地区大会準決勝(多古12-4⑦成田)のスタメン

*遊 田中凌久③成田S
二 國分諒③成田高校付属中

東部地区大会準決勝のスタメンだったのは、上記の2名

投 長島光来③佐倉S

は、代打で出場していた。

成田スタメン;

1⑧ 津留崎(2年生)左打ち秋・八千代松陰戦、5⑨、つまりレギュラー

2⑥ 國分(2年生)⇒秋・八千代松陰戦、#14控え、つまり1.5軍

3⑤ 田中(2年生)⇒秋・八千代松陰戦、#4途中出場

4② 高松(2年生)⇒秋・八千代松陰戦、#13控え、つまり1.5軍

5⑨ 西野(不明)左打ち登録外

6③ 豊田(不明)左打ち登録外

7⑦ 森本(不明)⇒登録外

8① 久保村(不明)左登録外、

9④ 秋山(2年生)⇒秋・八千代松陰戦、8④、つまりレギュラー

<コメント>

東京学館戦で12~14失点した久保村投手を、(妙な意地で)敢えて先発起用したのだろう。東京学館戦を観戦していた人は、確実に呆れていただろう。

明治神宮大会に出場する某チーム(山梨学院ではない)が、最終調整として成田と練習試合をしたそうだ。この辺りに、成田(尾島監督)の東部地区大会の位置づけが出ている。

 

(既報の通り、筆者はゼットエーにいたため、試合経過を伝えてくれた観戦者の投稿で解析する。)

 

 

 

成]長島18,齋藤1-大塚

4回or5回から、#1,齋藤を投入したことが分かる。

0-2と劣勢。これ以上傷口を拡げたくないという意図だろう。

 

東京学館、#1齋藤から、中押しの1点をもぎ取る。

 

尚も#1齋藤を攻め立てている

 

 

勝負強い成田の攻撃の中核、加古が凡退した。

 

足を使った攻撃で、かき回されていたようだ。

 

 

4/28追記:申し分のない動画があった

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<コメント>

8回裏の一死2塁から救援した#10戸島投手を含め、東京学館はベストメンバーで臨んでいる。絶体エースの齋藤を温存して、その齋藤から追加点をもぎ取ったことが大きかったと思える。

秋の正捕手・大塚選手を、#25で登録しているところに、ねじくれた性格が現れている。OB会に、「投手育成」が評価されている、とのことだが、私情を優先した選手用兵が、混乱を招いているのは、厳然たる事実だ。

長期政権(2000年~)の弊害だろう。

 

両監督のコメントのある記事があった;

東京学館、秋4強・成田を破る 2年生右腕が好投「想像以上の出来でした」

配信

コメント2件
高校野球ドットコム

成田の尾島監督は「投手も野手も全然ダメだった。投手も野手も、もう一度リセットし、一からレギュラーを探す」

 

<コメント>

100%選手の責任と言っている。

 

 

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3年振りに有観客で開催された東部地区大会(2022年)の位置付け;

選手名簿(秋・春)を付け合わせた結果

 

銚子商業:ベストメンバーで勝ちに行く。そのため控え選手の起用は極めて限定的で、2年生の起用はなかった。

1年区切りの最上級生優先を続けているため新チーム作りが未完成となる。そのため、大きく出遅れているチーム作りの場と化している。

 

成田:公式戦出場不可の選手(卒業)と、1.5軍~2軍の選手を起用。

よく根拠不明で語られる、2年生は修学旅行でいないは事実ではない

コールド負けが近づくと、意図がよく分からないが主力選手を投入する。

 

東京学館新戦力の発掘の場と位置付けでいる。1.5軍で臨んでいる。

 

千葉黎明:ほぼベストメンバーで臨んでいた。

 

夏のシード権を獲得したのは、東京学館と千葉黎明となった。

チーム作りに、マネジメントは重要ということだ。