「サイン盗み疑惑」の真相

習志野がしたとされる「サイン盗み疑惑」に特化したブログとしてスタート。その真相を明らかにした。< 続章>「サイン盗み疑惑」の真相は、朝日新聞を筆頭とする在日集団による捏造事件でした。甲子園を「良識ある高校野球ファン=日本人」が、将来の子供達の為に取り戻さなければなりません。<3章>高校野球の正常化には、『政治』の正常化が欠かせません。在日集団=NWO勢力(WEFのパペット)に侵された「現実」に踏み込む。<4章>に向けた準備期間として「力」を貯めています。(国際政治を取り上げる構想を棚上げ中)

#千葉県立房総のむら・風土記の丘資料館 リニューアル・オープン・・・『龍角寺古墳群』の主⇒ 印波国造 - 初代神武天皇の皇子(御歳の第一子)「神八井耳命」8世孫の『伊都許利命』を国造に定めた

追記2023/7/6「古代日本正史」S51、原田常治

『虚偽の神様時の権力者により書き換えさせられた偽りの祭神)を拝んでいても、本職の宮司でも氏子でも(もちろん一般の参拝者も)何のご利益を授けられはしない。』

 

神社巡りをする中で、強く感じていた違和感がそのまま記載されていた。

 

顕著な例;榛名神社

祭神
赤城山・妙義山と共に上毛三山の一つとされる榛名山の神を祀る神社で、現在の主祭神は火の神・火産霊神と土の神・埴山姫神である。水分神・高靇神・闇靇神・大山祇神・大物主神・木花開耶姫神を合わせ祀る。

特に酷いのが、木花開耶姫神を加えていること。全く関係ない。

 

中世以降は「満行権現」と称され、「元湯彦命」が祭神とされていた。『榛名山志』には東殿・饒速日尊、中殿・元湯彦命、西殿・熟真道命と記されている。明治元年に現在の二柱に改められた(書き換えさせられた)

 

歴史
綏靖天皇の時代に饒速日命の御子、可美真手命父子が山中に神籬を立て天神地祇を祀ったのが始まりといわれ、用明天皇元年(586年)に祭祀の場が創建されたと伝えられる。

延長5年(927年)完成の延喜式神名帳に上野国十二社として位置づけられている。古くから神仏習合が定着し、山中には九世紀ごろの僧坊とされる巌山遺跡がある。

 

 

記紀(神代とされる神話を利用した)の捏造について、その詳細を熟知した上で、関東圏、特に千葉・茨城(畿内から逃れた外物部氏の東国の基盤だった)の神社を巡ってきた。

長期にわたり改装中だった風土記の丘資料館リニューアル・オープンにあわせ、建国史が意図的に欠落させられている、真の日本古代史の一端を掘り下げた。

 

銚子ばやし保存会「愛宕獅子」

 

--------------------------------

 

 

 

 

--------------------------------

 

神武天皇の即位年について、日本書紀には「辛酉(かのととり)年」とある。

 

辛酉(かのととり、しんきんのとり、しんゆう)は、干支の一つ。

干支の組み合わせの58番目で、前は庚申、次は壬戌である。陰陽五行では十干の辛は陰の金、十二支の酉は陰の金で、比和である。

 

辛酉と革命
西暦年を60で割って1が余る年が辛酉の年となる。

辛酉には革命的な要素があるとされている。

『緯書』(煬帝が禁止。三善清行『革命勘文』(『群書類従』第貮拾六輯 雜部 所収)に「易緯」、「詩緯」の逸文が残るのみ)には、庚申に続いて辛酉も金性であり、辛は陰気であり、人の心が冷酷になりやすいとされている。辛酉年は天命が改まる年とされ、王朝交代の革命の年で辛酉革命という。日本において、辛酉年に改元する理由は政治的変革の防止が目的であり、三善清行により昌泰4年(901年)の辛酉年に元号を「延喜」に改めたことから始まった。前年の庚申年と2年続けて改元が行われることが多く、明治時代になるまで続けられたが、中国では前例がない。

明治時代の学者である那珂通世は神武天皇即位の年代について「革命勘文」の鄭玄の注「天道不遠 三五而反 六甲為一元 四六二六交相乗 七元有三変 三七相乗 廿一元爲一蔀 合千三百廿年」を挙げ、1260年に一度(干支一周の60年(1元)×21元=1260年=1蔀)の辛酉年には大革命があるとし、推古天皇9年(601年)がその年に当たり、この年の1260年前である西暦紀元前660年に神武天皇が即位したとする説を立てた。「革命勘文」の鄭玄の注では1320年と記述されることから、60年×22回=1320年周期説もあり、その場合は辛酉年の3年後である甲子年が革令(甲子革令)の年であり、白村江の戦いの翌年である西暦664年(甲子)を基点として西暦紀元前660年とされる。

辛酉月は西暦年の下1桁が3・8(十干が癸・戊)の年の8月となる。ここでいう月は旧暦月や節月(白露から寒露の前日まで)を適用する場合もある。辛酉日は八専の7日目(間日を除く)である。

 

神武天皇の即位年⇒241年『神武紀元(皇紀)』

神代から続く家系から試算

・ 出雲臣氏(いずもおみし):天穂日命より83代目・千家尊祀

・ 国宝「籠名神社祝部氏系図」:彦火明命=ニギハヤヒ)より82代目・海部光彦

 

つまり、241年以前が、『神代』とされていることになる

 

関連;

千家 尊福(せんげ たかとみ、弘化2年8月6日(1845年9月7日) - 大正7年(1918年)1月3日[1])は、日本の宗教家、政治家。81代出雲国造、出雲大社宮司。神道大社教(1946年出雲大社教に改称)創立者で初代管長、元老院議官、貴族院議員、埼玉県知事(第4代)、静岡県知事(第4代)、東京府知事(第17代)、司法大臣(第14代)、東京鉄道株式会社社長などを歴任した。位階は従二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。

 

概要
出雲大社の宮司を務める出雲国造家に生まれ、神道大社派を創始する。その後、神道大社教に改称し管長に就任するなど[2]、教派神道たる出雲大社教の礎を築いた。元老院議官を経て、第1回貴族院男爵議員選挙にて貴族院議員に選出される。以来、連続4期に渡り貴族院議員を務めた。院内においては、木曜会を旗揚げするなど[3]、精力的に活動した。また、埼玉県知事、静岡県知事、東京府知事を歴任したのち、第1次西園寺内閣にて司法大臣に就任した。  

 

略歴
1845年8月  第79代出雲国造千家尊澄の長男として生まれる
1872年11月 第80代出雲国造となる
1873年1月  信仰団体「出雲大社敬神講」を組織する(同年、出雲大社教会と改称)
1876年5月  出雲大社教院と改称
1878年1月 東京神田の神田神社内に、出雲大社教会東京出張所開設(後の出雲大社東京分祠)
1881年2月 神道事務局の祭神を決定する勅裁が下る(祭神論争の終結)
1882年5月 神官教導職分離令(神官の布教活動を禁止)により、国造職を弟の千家尊紀に譲って出雲大社宮司の職を辞す[4][5]。出雲大社教会を分立して宗教団体「神道大社派」(のち神道大社教)と改称し、初代管長職に就き、本格的な布教活動を始める[5]。
1883年7月 皇室へ御恩貸の請願
1888年6月 伊藤博文の推挙により元老院議官となり、管長職を辞す
1890年7月 貴族院議員となる
1893年8月 文部省唱歌として「一月一日」が官報に告示される
1894年1月 埼玉県知事に就任
1897年4月 静岡県知事に就任、7月に木曜会を結成。
1898年11月 東京府知事に就任
1908年3月 西園寺内閣の司法大臣に就任
1909年3月 東京鉄道会社社長に就任
1911年5月 東京商業会議所特別議員に就任
1918年1月  死去、享年73。爵位は千家尊統(婿養子、実弟の千家尊紀の子)が継承

 

祭神論争
宣長と篤胤
本居宣長は、記紀をもとに「顕事(あらわごと)」と「幽事(かくりごと)」との対立軸を著し、「顕事」とは現世における世人の行う所業(=頂点は天皇が行う政(まつりごと)であり、「幽事」とは目に見えない神の為せる事(=統治するのは大国主神であるとした。

平田篤胤は、宣長の顕幽論をさらに発展させ、顕界は有限の仮の世界であるのに対し、幽界は無限の真の世界であるとし、死者の魂は「幽冥界主宰神」である大国主神によって裁かれ、善なる霊魂は「天津国」へ、悪き霊魂は「夜見国」へ送られるとした。また、素盞嗚命は伊耶那岐命から国土の統治を任された善神であるとして、天照大神が善神であるのに対して、素盞嗚命は悪神であるとの従来の説を否定した。

宣長が出雲を重視しつつも、天照大神→天皇へと繋がる系譜(「天」・「顕」中心、「伊勢」中心)を重視したのに対し、篤胤は、素盞嗚命→大国主神へと繋がる系譜(「地」・「幽」中心、「出雲」中心)を重視した。篤胤の思想は幕末期を経て出雲関係者の中に浸透し、明治期の祭神論争に大きな影響を与えた。

 

国家神道の展開
1870年1月 大教宣布の詔
1871年5月 神職世襲制禁止の布告と同時に「官社以下定額及神宮職員規則等」の布告。
1871年7月 神祇官を神祇省に改組
1872年3月 神祇省廃止、教部省設置
1873年1月 大教院設立
1875年4月 大教院廃止、神道事務局設置
1877年6月 教部省廃止、内務省内に寺社局設置
1881年2月 宮中の祭神を定める勅裁が下される
1882年1月 神官が教導職に就くこと及び葬儀に関わることを禁ずる通達が出される(1884年より実施)


国家神道政策
明治政府は、王政復古・祭政一致の方針のもと、天皇を天照大神より続く万世一系の絶対的権威として国民教化を図るべく、国家神道の整備を進めていた。

1870年大教宣布の詔を発し、神祇官(のち神祇省に改組)がその中心を担った。祭祀(さいし)と教化を担っていた神祇省は1872年に廃止され、祭祀については宮内省があたり、教化の機関として新たに教部省が設置された。教部省は国民教化を担う教導職を養成するべく、大教院を設置したが、神道・仏教間の対立各宗派間の主導権争いによりうまく進まず、仏教側は大教院を離脱、神道側は新たに神道事務局を設立するなどし、大教院は廃止された。  

 

伊勢派と出雲派の対立

神道事務局は、事務局の神殿における祭神として造化三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)(記紀神話冒頭の創作。目的は、天照大神を強引に尊厳にして唯一の皇祖神としようとした。)と天照大神の四柱を祀ることとしたが、その中心を担っていたのは伊勢神宮大宮司の田中頼庸「伊勢派」の神官であった。これに対して尊福を中心とする「出雲派」は、「幽顕一如」を掲げ、祭神を大国主大神を加えた五柱にすべきとした。

「顕と幽、見える世界と見えざる世界、生と死、これら表裏一体である」として、「顕界」の主神たる天照大神と「幽界」の主神たる大国主神を同じく祀るよう主張する出雲派に対し、伊勢派は、天照大神は顕幽両界を支配する「天地大主宰」であり、他の神々はその臣下にすぎないと主張するなど、両派は真っ向から対立。果てには、「出雲派が神代より続く積年の宿怨を晴らさんとしている」「皇室に不逞な心を持っている千家尊福を誅殺すべし」など、様々な風説が飛び交った。

出雲派の主張は多くの神道者・国学者から支持を得、また伊勢派の多い神道事務局内にも尊福を支持するものが出るなど、形勢は出雲派に傾きつつあった。危機感を抱いた伊勢派は、内務省や宮内省などに働きかけ、勅裁を得るべく工作を図った。その結果、1881年2月に開かれた「神道大会議」で、「神道事務局においては、宮中斉祭所に奉斎される天神地祇、賢所、歴代天皇の御霊を遙拝する」という勅裁が下され、これにより祭神論争は伊勢派の勝利として決着をみることとなった。 

 

 

<コメント>

出雲派の主張も、

記紀をもとに

の作られた主張であることに変わりはない。

地味な事績だった大国主神(=大己貴命)壮絶な格上げは、そもそも藤原不比等らが素戔嗚尊の権威を失墜させることが目的だった創作であり、その意味では何とも間の抜けた主張だった。

 

 

出雲大社教の設立
尊福は勅裁を受け入れたが、同時に国家神道とは宗教的見解に基本的相違が存在することを知り、神道事務局から独立した形での教化活動を進めねばならないと考えた。1882年に神官が教導職に就くことを禁ずる通達が出たこともあり、尊福は出雲大社教会を独立して「神道大社派」を設立。国造職を弟の尊紀に譲り、自らは管長として精力的に全国を歴訪し、布教に専念した。  

 

家族・親族
千家家は北島家と並び、代々の当主が出雲国造を務めてきた。出雲大社の宮司や出雲大社教の管長をはじめ、千家家は多くの神職を輩出している。明治に入ると華族に列せられ、1884年には尊福が男爵に叙されている。

伏原宣明(義祖父) - 儒学者。尊福の妻・俊子(1851年生)の父方祖父。俊子の兄に伏原宣足、姉の夫に木下俊愿。
千家尊澄(父、1816-1878) - 千家当主(79代出雲国造)。妻の婦美子は広橋光成の五女。
千家尊紀(弟、1860-1911) - 千家当主(81代出雲国造)。妻の淑子は松平忠和 (島原藩主)長女(庶子)。子は庶子を含め10人以上おり、長男の千家尊統(1885年生)は尊福の五女・一子を妻とし千家当主(82代出雲国造)を継ぐ。五男の千家尊宣(1898年生)は尊福の庶子・厚子(1902年生)の夫。長女の勇子(1892年生)は清岡真彦(清岡公張四男)の妻、庶子の義子(1900年生)は稲川次郎(杉山岩三郎弟)、庶子の千代子(1908年生)は松平忠諒(義母の父松平忠和の孫)の妻となった。[6][7]
千家元麿(長男、庶子) - 詩人。尊福の子は庶子も含め十数人おり、庶子の生母はすべて小川豊(登代)と記録されている[8][9]。豊は両国の料亭「青柳」の娘で、梅崖の号を持つ画家でもあった[9]。
千家鯱丸(三男、庶子) - 第二代出雲大社教管長・千家尊愛の養子に出す予定だったが、1913年(大正2年)4月10日、19歳で玉突き屋の女性山本しづ17歳と新橋行貨物列車に飛び込み心中し世間を騒がせた[10]。
千家哲麿(六男、後に親族・千家忠へ養子) - 厚生省(現厚生労働省)官僚(国立公園運営担当)、造園家
千家紀彦(孫) - ジャーナリスト、作家。厚子(尊福庶子)と千家尊宣(尊紀五男)の子。
千家国麿(玄孫) - 神職。出雲国造84代千家尊祐の長男。
毛利元忠(二女国子の夫) - 子爵[7]
北岡鶴松(三女信子の夫) - 実業家[8]
尾崎洵盛(四女多嘉子の夫) - 陶磁器研究家[7]
藤井厚二(庶子壽子の夫) - 建築家[7]
菅原太郎(庶子極子の夫) - 演劇研究家[7]
藤波言忠(妹奈保子の夫) - 子爵[7]
吉川経健(妹喜佐子の夫) - 子爵[7]

 

栄典・受章・受賞
位階
1884年(明治17年)9月20日 - 従三位[11]
1900年(明治33年)9月21日 - 正三位[12]
1916年(大正5年)8月10日 - 従二位[13]
1918年(大正7年)1月3日 - 正二位[14]
勲章等
1884年(明治17年)7月8日 - 男爵[15]
1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[16]
1898年(明治31年)6月28日 - 勲三等瑞宝章[17]
1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等旭日大綬章[18]・明治三十七八年従軍記章[19]
1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[20]
外国勲章佩用允許
1906年(明治39年)3月23日 - イギリス帝国:ロイヤル・ヴィクトリア勲章コマンダー[21] ⇒嫌な匂いがする

 

 

 

--------------------------------

 

 

 

綏靖天皇(すいぜいてんのう、神武天皇29年 - 綏靖天皇33年5月10日)は、日本の第2代天皇(在位:綏靖天皇元年1月8日 - 綏靖天皇33年5月10日)とされる伝説上の人物である[注 1]。 『日本書紀』での名は神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと)。欠史八代の1人。神武天皇の子(第二子)とされる。

 

略歴
神日本磐余彦天皇(神武天皇)の第三皇子母は事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(日本書紀)[1]。同母兄に神八井耳命多臣等諸氏族の祖)、『古事記』では加えて同母長兄に日子八井命(日本書紀なし、茨田連・手嶋連の祖)の名を挙げる。神武天皇42年1月3日に立太子。

父帝が死去した3年後の11月、異母兄の手研耳命を誅殺。翌年の1月に即位して葛城高丘宮(かずらきのたかおかのみや)に都を移す。同年7月、事代主神の娘で天皇本人の叔母(母の妹)にあたる五十鈴依媛命を皇后として磯城津彦玉手看尊(後の安寧天皇)を得た。即位33年、死去。


神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと) - 『日本書紀』
神沼河耳命(かんぬなかわみみのみこと) - 『古事記』
建沼河耳命(たけぬなかわみみのみこと) - 『古事記』手研耳命を殺したことによる名。
漢風諡号である「綏靖」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる[2]。「綏」も「靖」も「やすらか」の意であり、「綏靖」で「安らかに落ち着く」の意になる。「綏靖」は中国三国時代について書かれた歴史書三国志に由来している。

君其茂昭明德,修乃懿績,敬服王命,綏靖四方。[3]

 

神武天皇76年3月11日に父帝が死去した際、朝政の経験に長けていた庶兄の手研耳命皇位に就くため弟の神八井耳命と神渟名川耳尊を害そうとした(タギシミミの反逆)。己卯年[注 2]11月、この陰謀を知った神八井耳・神渟名川耳兄弟は、神武天皇の山陵を築造し終えると、弓部稚彦に弓を、倭鍛部の天津真浦に鏃を、矢部に箭を作らせた。そして片丘(奈良県北葛城郡王寺町・香芝町・上牧町付近か[4])の大室に臥せっていた手研耳を襲い、これを討った。この際、神八井耳は手足が震えて矢を射ることができず、代わりに神渟名川耳が射て殺したという。神八井耳はこの失態を深く恥じたため、神渟名川耳が皇位に就き、神八井耳は天皇を助けて神祇を掌る忌人(いはひひと)=神祇の奉典者」こととなった[4][1]。

即位後の事績は『日本書紀』・『古事記』とも記載がなく欠史八代の1人に数えられる。

 

--------------------------------

 

神八井耳命(かんやいみみのみこと[1]、生年不詳 - 綏靖天皇4年4月)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。

初代神武天皇の皇子(第一子で、第2代綏靖天皇の同母兄とされる。多臣(多氏)及びその同族の祖とされる。

 

系譜 
(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)

『日本書紀』によれば神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと事代主神の娘)との間に生まれた皇子とされ、『古事記』でも母親を比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ、大物主神(=ニギハヤヒ)の娘『御歳』 大己貴神藤原不比等ら中臣一族による記紀を利用した悪意に満ちた創作である)とする。

『日本書紀』では、同母弟に神渟名川耳尊(神沼河耳命、第2代綏靖天皇)を、『古事記』では加えて同母兄に日子八井命「第三子、茨田連(まむたのむらじ)等の祖」(日本書紀なし)の名を挙げる。

『新撰姓氏録』右京皇別 茨田連条や『阿蘇家略系譜』では、日子八井命(彦八井耳命)を神八井耳命の子とする異説が掲載されている[2]。

 

墓・霊廟

墓は不詳。『日本書紀』では、神八井耳命は「畝傍山北」に葬られたと記されている[1]。畝傍山の北に所在する八幡神社(奈良県橿原市山本町152)社伝では、同社は神八井耳命の墓の所在地であるといい、古くは「八井神社」と称されたとする。

また、多氏の氏神社である多坐弥志理都比古神社(奈良県磯城郡田原本町)、その末裔の皇別の志貴県主の総社で式内社である志貴県主神社(大阪府藤井寺市)を始めとする諸社で、命の霊が祀られている。

 

後裔
氏族
『日本書紀』では、神八井耳命について多臣(多氏)の祖と記している[1]。

また『古事記』では、意富臣・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・雀部臣・雀部造・小長谷造・都祁直・伊余国造・科野国造・道奥石城国造[5]・常道仲国造・長狭国造・伊勢船木直・尾張丹羽臣・嶋田臣ら19氏の祖とする[1]。

『先代旧事本紀』「天皇本紀」では後裔として意保臣(多臣)、島田臣、雀部造が挙げられている。

そのほか『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている[1]。

左京皇別 多朝臣 - 出自は諡神武の皇子の神八井耳命の後。
左京皇別 小子部宿禰 - 多朝臣同祖[6]。神八井耳の後。
右京皇別 島田臣 - 多朝臣同祖。神八井耳命の後。同条では五世孫に武恵賀前命、七世孫に仲臣子上の名を挙げる。
右京皇別 茨田連 - 多朝臣同祖。神八井耳命男の彦八井耳命の後。
右京皇別 志紀首 - 多朝臣同祖。神八井耳命の後。
右京皇別 薗部 - 同氏。
右京皇別 火 - 同氏。
大和国皇別 肥直 - 多朝臣同祖。神八井耳命の後。
河内国皇別 志紀県主 - 多同祖。神八井耳命の後。
河内国皇別 紺口県主 - 志紀県主同祖。神八井耳命の後。
河内国皇別 志紀首 - 志紀県主同祖。神八井耳命の後。
和泉国皇別 雀部臣 - 多朝臣同祖。神八井耳命の後。
和泉国皇別 小子部連 - 同神八井耳命の後。
和泉国皇別 志紀県主 - 雀部臣同祖。

 

国造
前述のように、『古事記』では伊余国造・科野国造・道奥石城国造・常道仲国造・長狭国造の祖とする。

『先代旧事本紀』「国造本紀」では、次の国造が後裔として記載されている。

 

印波国造 - 軽島豊明朝(応神天皇第15代)の御世に神八井耳命8世孫伊都許利命(いつこりのみこと)を国造に定める。のちの下総国印旛郡印旛郷周辺にあたる[7]。


科野国造 - 瑞籬朝(崇神天皇)の御世に神八井耳命の子の武宇都彦命の3世孫・武五百建命を国造に定める。のちの信濃国小県郡周辺にあたる[8]。
阿蘇国造 - 瑞籬朝(崇神天皇)の御世に火国造同祖の神八井耳命の孫の速瓶玉命を国造に定める。のちの肥後国阿蘇郡阿蘇郷周辺にあたる[9]。
上記のほか、同書では伊余国造には印旛国造同祖敷桁彦命の子速後上命、仲国造には伊余国造同祖建借馬命、阿蘇国造同祖の火国造には大分国造同祖志貴多奈彦命の子建男組命が定められたとされる。

 

印波国造(いんばのくにのみやつこ)は下総国中部を支配した国造

概要[編集]

祖先[編集]

氏族[編集]

丈部氏(はせつかべうじ、)。

本拠[編集]

支配領域[編集]

国造の支配領域は当時印波国と呼ばれた地域、後の下総国印旛郡に相当し、現在の千葉県成田市佐倉市八街市四街道市印西市印旛郡に当たる。

氏神[編集]

[編集]

人物[編集]

子孫[編集]

潮船の 舳(へ)越(こ)そ白波 にはしくも 負ふせたまはか 思はへなくに (潮船の 舳先を越す白波のように いきなり お召しになることか 思いがけないのに)[1]

 

 

人物
『続日本後紀』及び『日本三代実録』では以下の人物が神八井耳命の後裔と記されている。

県主前利連氏益(右京人)[10]
志紀県主貞成・志紀県主福主・志紀県主福依(いずれも河内国志紀郡人)[11]
多臣自然麻呂(右京人)[12]
金刺舎人貞長(信濃国諏訪郡人)[13]

 

神八井耳命を祀る主な神社[編集]

以下は、現在の祭神は神八井耳命ではないが、ゆかりがあるともされる神社である。

  • 大井神社(茨城県水戸市飯富町) ※式内社論社 - 祭神は初代仲国造建借馬命であるが、その先祖である神八井耳命であったという説もある。
  •  
  • 大生神社(茨城県潮来市大生) - 多神社から遷座したという説がある
  • 麻賀多神社奥宮(千葉県成田市船形) ※式内社 - 神八井耳命の裔で初代印波国造の伊都許利命を祀る境外社があり、その墳墓とされる古墳もある。
  •  
  • 飽富神社(千葉県袖ケ浦市飯富) ※式内社 - 神八井耳命が創建したと伝承される。
  • 長谷神社(長谷寺鎮守)(長野県長野市篠ノ井塩崎) ※式内社 - 祭神の「八聖大神」は神八井耳命の孫であると伝承される。
  • 大縣神社(愛知県犬山市宮山) ※式内社 - 祭神の「大縣大神」は神八井耳命の孫で迩波縣君の祖の武恵賀前命であるという説がある。
  • 意非多神社(三重県松阪市西黒部町) ※式内社 - 神八井耳命の後裔の多氏の人々が創建したとされる。
  • 黒田神社(大阪府藤井寺市北條町) ※式内社 - 神八井耳命のかくし廟所であると伝承される。
  • 八幡神社(八井神社)(奈良県橿原市山本町) - 神八井耳命の墓所であると伝承される。
  • 伊予神社(愛媛県伊予郡松前町神崎) ※式内社論社 - 神八井耳命の裔で初代伊余国造の速後上命(速後神命)が祀られる。
  • 健軍神社(熊本県熊本市東区健軍本町) - 神八井耳命の裔で初代火国造の健緒組命(健軍大神)が祀られる。
  • 高千穂神社宮崎県西臼杵郡高千穂町大字三田井) - 祭神の「高知尾(明神)」は神八井耳命の別名であるという説がある。
  • 槵觸神社(宮崎県西臼杵郡高千穂町大字三田井) - 同上。

 

--------------------------------

 

岐須美美命⇒手研耳命(長子)の妹(末子)

岐須美美命(きすみみのみこと[1])は、日本神話に登場する人物・男神で、初代天皇神武天皇の子である[2][3]。『古事記』中巻に登場し、『日本書紀』には登場しない[2][4]。また、『古事記』でも事績に関する記載はなく、子孫に関する記載もない。

記紀での言及[編集]

『古事記』中巻の「神武記」には次のような一文がある[2][1]

故、坐日向時、娶阿多之小椅君妹・名阿比良比売生子、多芸志美美命、次岐須美美命、二柱坐也。
(大意)(神武天皇が)「日向」(ヒムカ)にいた頃、「阿多」(アタ)の「小椅君」の妹で名を阿比良比売(アヒラヒメ)を娶り、生まれた子が、多芸志美美命(タギシミミノミコト)、岐須美美命(キスミミノミコト)の2柱である[1][5]

一方『日本書紀』巻三「神武天皇紀」には、大筋で同じ内容となる次のような一文がある。しかしこちらには子の名前は「タギシミミ」のみ記されていて、岐須美美命に相当する人物の言及がない[2]

長而娶日向国吾田邑吾平津媛、為妃、生手研耳命。
(大意)(神武天皇は)長じて「日向(ヒムカ)国」の「吾田(アタ)邑」の吾平津媛(アヒラツヒメ)を娶って妻とし、手研耳命(タギシミミノミコト)が生まれた[6]

このほか先代旧事本紀』巻六「皇孫本紀」には神武天皇と吾平津媛の2人の子として「手研耳命」と「研耳命」(キシミミノミコト)の名が登場する[7]。が、巻七「天皇本紀」には登場しない[8]

 

吾平津媛:吾田(阿多)族(南方海洋民)首領の娘

岐須美美命⇒臺與(台与、とよ)(235年 - 没年不明)。伊勢神宮の外宮の祭神豊受皇大神(とようけすめらおおかみ)

 

 

隼人(はやと)とは、古代日本において、阿多・大隅(現在の鹿児島県本土部分)に居住したとされる人々[1]。

概要

日本神話には海幸彦が隼人の阿多君の始祖であり、祖神火照命の末裔であるとされる[2][3]。「はやひと(はやびと)」、「はいと」とも呼ばれ、「(犬のように)吠える人」の意味とも[4]、「ハヤブサのような人」の形容とも[5]方位の象徴となる四神に関する言葉のなかから、南を示す「鳥隼」の「隼」の字によって名付けられたとも[6](あくまで隼人は大和側の呼称)。

風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した。やがてヤマト王権の支配下に組み込まれ、律令制に基づく官職のひとつとなった。兵部省の被官、隼人司に属した。百官名のひとつとなり、東百官には、隼人助(はやとのすけ)がある。現在は、日本人男性の人名としても用いられる。

古く熊襲(くまそ)と呼ばれた人々と同じとする説[7]、熊襲の後裔を隼人とする説(系譜的というよりその独特の文化を継承した部族)[8]、「熊」と「襲」を、隼人の「阿多」や「大隅」のように九州南部の地名であり、大和政権に従わないいくつかの部族に対する総称と解する説などがある。

熊襲とは、日本の記紀神話に登場する、現在の九州南部にあった襲国(ソノクニ)[9]に本拠地を構え、ヤマト王権に抵抗したとされる人々。また地域名自体を表す総称である[9]。古事記には熊曾と表記され、日本書紀には熊襲、筑前国風土記では球磨囎唹と表記される[10]。肥後国球磨郡(くまぐん。現熊本県人吉市周辺。球磨川上流域)から大隅国曽於郡(そおぐん。現鹿児島県霧島市周辺。現在の曽於市、曽於郡とは領域を異にする)に居住した部族とされ[9][10]、5世紀ごろまでに大和朝廷へ臣従し、「隼人」として仕えたという説もある(津田左右吉ら)。

また「熊襲」という言葉は記紀の日本武尊物語などの伝説的記録に現れるのに対し、「隼人」は平安時代初頭までの歴史記録に多数現れる。熊襲が反抗的に描かれるのに対し、隼人は仁徳紀には、天皇や王子の近習であったと早くから記されている[11][注 1]。こうした近習の記事や、雄略天皇が亡くなり墓の前で泣いたなどの記事は、私的な家来であり、帰化したのは7世紀末頃とされる[13][14][12][要ページ番号]が、6世紀末や7世紀初め説もある[15]。文献上の確実な史実として初めて「隼人」が登場するのは、『日本書紀』に見える682年(7世紀後半・天武天皇11年)7月の「朝貢」記事と考えられている[16][17]。

2018年の論文[1]によると、9世紀初頭以降、南九州の住民を「隼人」と呼称する例は、史料上ひとつもみられなくなることが確認されている。よって南九州の人々が隼人と呼ばれたのはわずか120年間ほどのことにすぎないことが指摘されている[18][1]。

隼人は大和政権へ服属後もしばしば朝廷に対し反乱を起こし、大隅隼人などは713年(和銅6年)の大隅国設置後にも反乱を起こしたが、720年(養老4年)に勃発した隼人の反乱と呼ばれる大規模な反乱が、征隼人将軍大伴旅人によって翌721年に征討された後には完全に服従した。793年(延暦11年)8月にはこれまで6年に1度の「隼人の調」を廃した(『類聚国史』隼人条)。これに伴って、一般の公民と同じ調庸に置き換えられて隼人とそれ以外の百姓との間の負担の公平化を図ったと考えられる。続いて800年(延暦18年)には班田収授法が初めて実施された。元来、奥羽両国や薩摩・大隅などの「辺要国」における班田収授が遅れた理由は、班田収授には墾田の収公なども伴うために帰属した蝦夷・隼人を含めた辺要国の「百姓」の動揺を防ぐとともに彼らの墾田を保護した優遇策であった。従って、班田収授法の対象になるということは隼人にも一般の公民と同じ租庸調が課される条件が整えられたことになり、法的意味での「隼人の消滅(=公民化・百姓化)」の完成を意味したと考えられる[19]。

8世紀初め、現在の鹿児島県一帯への移住民は総人口の7分の1に相当する9千人前後と推定され[5]、この推定に従うなら、(総人口6万3千人-9千人前後で)5万4千人前後が在地人=隼人と推定される(本州への移住民は含まず)[注 2]。

古くから畿内に移住させられ、強さの象徴である隼人は宮中で守護に当たる[注 3]ほか、芸能、相撲、竹細工などを行うようになった[注 4][注 5]。特に山城国(京都府)南部に多く定住し[注 6]、大隅隼人の住んだ現在の京都府京田辺市には「大住(おおすみ)」の地名が残る。律令制下においては、隼人司(衛門府、後に兵部省)が、これらを司った。

言語[注 7]・文化に関しては、他の地方と大きく異なっていたとされる[注 8]。特に畿内では、彼らの歌舞による「隼人舞」が有名であった[注 9][注 10]。また平城宮跡では彼らが使ったとされる「隼人楯」が発掘されており、これには独特の逆S字形文様が描かれている(『延喜式』に記述があり、合致している)。

『肥前国風土記』によると、「五島列島の海士は容姿が隼人に似ており、騎射を好み、言葉も俗人と異なっている」という記述がある。また『新唐書』によると「邪古・波邪・多尼の三小王」がいたというが、波邪は隼人のことであろうとされている[24]。その南九州の範囲であるが、熊本県域や宮崎県域、南西諸島の人々が隼人とされた例もまた史料上ひとつも確認されず、鹿児島県本土域の人々のみが隼人であったと考えられる[1]。ただし、鹿児島県本土域においても住民が隼人とはされていなかったであろう地域も想定されている[1]。

 

各地の隼人
阿多隼人(薩摩隼人)
薩摩半島一帯に居住していた隼人。薩摩国設置以前はこの一帯はアタ(阿多又は吾田と表記される)と呼ばれていた。『日本書紀』の682年(天武天皇11年)の記事に記される。薩摩国設置後は、『続日本紀』709年(和銅2年)で薩摩隼人の呼称が用いられる。


大隅隼人
後世、大隅郡(大隅半島北部、特に「大隅郷(現在の志布志市から曽於市大隅町)」周辺か)と呼ばれる地域に居住した隼人。主領域を肝属平野とする集団であるとする説もある[25]。『日本書紀』682年(天武天皇11年)条に記事がある。


その他の呼称
上記2区分の隼人以外にも「日向隼人」や「多褹隼人」「甑隼人」という隼人集団が存在するように解説される場合がある。しかし中村明蔵の指摘するところでは、これらは史料にみえる隼人の個人名を集団名と誤認したことや、地域名称の変更に伴う集団呼称の変更を考慮せずに引用したことなど、史料を読み違えたことで生じた誤りであり、集団名としての隼人区分は阿多(薩摩)隼人・大隅隼人のみとされる[26]。

日向隼人
日向国の隼人の意だが、大隅国が日向国から分立する以前の『続日本紀』710年(和銅3年)条に1度だけ記述される用例で、その内容も「曾君細麻呂」ら大隅地域を基盤とする隼人についてであるため、大隅隼人と同義である。
多褹(たね)隼人
種子島(多禰島)と屋久島(掖玖島)に居住した住民で、702年(大宝2年)には多褹に対して征討軍を派遣して鎮圧する事態になったが、「多褹」や「益救(掖玖)」の語はみえるものの「多褹隼人」との記述は史料上存在しない。
甑隼人
甑島に居住した住人。『続日本紀』769年(神護景雲3年)の条に記事がみえるが、「甑隼人麻比古」と言う個人名の記述であり、集団の区分では薩摩隼人に属する。
なお、この状況について中村は、「隼人の反乱」とかけて「ハヤトの氾濫」と揶揄している[27]。

 

隼人の考古学
考古学的には、古墳時代の鹿児島県・宮崎県境周辺の九州南部に地下式横穴墓などの「地下式墓制」が分布することから、かつてはこれを隼人と関係づける説があった[7][28][29]。

それによると、隼人の墓制は3種類あるとして、薩摩半島南部の「立石土壙墓」を阿多隼人[30]、薩摩半島北部の「板石積石棺墓(地下式板石積石室墓)」を薩摩隼人、そして日向・大隅に分布する「地下式横穴墓」を日向・大隅隼人の墓制にそれぞれ対応させるというものであった[注 11]。

しかしこれら九州南部の地下式墓制を隼人と関連付ける考え方は、1960 - 80年代にかけて隆盛したが、1990年代以降は文献と考古資料の安易な結びつけや、少なくとも飛鳥・奈良時代の「隼人」の概念を古墳時代中期 - 後期の地下式墓制にまで波及させる考え方について地元九州地方の研究者や学会から疑問や批判が強まり[32][33][34]、2000年代以降の考古学・文献史学からは有力な学説と見なされていない(地下式横穴墓・板石積石棺墓・立石土壙墓の項も参照)[35][36][37][38]。なお、隼人が文献上多く登場してくる7世紀後半 - 8世紀代の墓の遺構については、現地九州南部ではほとんど検出されておらず、確実に「隼人の墓」と位置づけられる墓制は、現状では不明といわざるを得ない[39]。

また、南山城地域、京都府京田辺市大住の男山丘陵から横穴墓が多く発見されていることについても、隼人と関連付ける説があった(本来、山砂利を取る地域であり、横穴は掘りにくい地域の為、隼人墓制と対応するとされた)[40]が、考古学上、横穴墓と地下式横穴墓が別物であるうえ、隼人がいた九州南部には横穴墓がほとんど分布しないため、関連性に疑問がある[41]。

 

神話の中の隼人
日本神話では、海幸彦(火照(ホデリ)命または火闌降命)が隼人の阿多君の祖神とされ(海幸山幸)、海幸彦が山幸彦に仕返しされて苦しむ姿を真似たのが隼人舞であるという[注 12][注 13]。

説話の類型(大林太良ら)などから、隼人文化はオーストロネシア語系文化であるとの説もある[42][注 14]。

654年(7世紀中頃)、日向に覩貨邏(通常は西域のトハラ人と解釈するが、現在のタイ・ドヴァーラヴァティとの説有り)の民が漂着した記述がある[46]。

 

人骨から見た違い
南九州における男性人骨の形質は、内陸部と宮崎平野部では異なることが報告されている[47]。内陸部の人々は縄文人・西北九州弥生人に類似し、一方、平野部の人々の中には、北部九州弥生人に類似するグループも存在するとしている[注 15]。つまり、内陸隼人は縄文系弥生人に近いと見られ[注 16]、人骨形質の観点からも隼人には地域差があったと判断される。さらに種子島の弥生時代終末期の遺跡から出土する人骨は、九州島の人骨と比較して、小柄であり、頭蓋変形がほどこされていたと考えられている[49]。

ただし、これら人骨形質からの隼人像の復元については、弥生・古墳時代の考古資料を直接、隼人と結び付けて論じられていた時期(1960年代 - 90年代)の学説に基づき、弥生・古墳時代人骨を基に分析されており[47]、この時代の考古資料を用いての隼人像の復元はできないと断じられた2000年代以降の研究解釈[36][50][38]においては、その妥当性に注意が必要である。

 

隼人系呪術と関連氏族
『延喜式』巻28(隼人司)には、元日・即位・蕃客入朝などの大儀には、「大衣2人、番上隼人20人、今来隼人20人、白丁隼人132人が参加した」と記されており、遠従の駕行には、「大衣2人、番上隼人4人、今来隼人10人が供奉した」とあり、隼人の呪力が大和政権の支配者層に信じられ、利用されていたと見られている[51]。井上辰雄らは、狗吠(犬の鳴き真似)行為や身につけている緋帛の肩巾(ひれ)や横刀が、悪霊を鎮める呪声であり、呪具であった事を明らかにしている[51]。

山川門など境界祭祀を司るとみられる境部(境合部)氏の系統は7氏あるが、この内、大和国宇智郡(現五條市原町おおすみ)境合部は、隼人系と見られ、これを含め、2氏が隼人系とされる[52]。また、『延喜式』巻28大儀の条に「隼人の服装」についての記述があるが、『日本霊異記』(上巻一)に、小子部氏が雄略天皇の勅命により雷を捕えようとした時の姿、「緋(あけ)の蘰(かずら)を額(ぬか)に著け、赤き幡鉾(はたほこ)をあげ」と酷似し、この事から井上辰雄は、隼人は雷神の鎮魂と言う職掌を介して小子部連と結びついていたのではないかと推測している[53]。

宮崎県えびの市島内の島内地下式横穴墓群から出土した計209体の人骨の多くは非常に良好な保存状態にあり、宮崎県立西都原考古博物館に保管されている93体について、赤色顔料の塗布の有無と部位に関する観察が行なわれた[54]。結果、顔料が塗られていた127体の内、顔面のみの塗布が最も多く(38例)、次いで頭部・上半身・下半身のいずれにも顔料を塗布したもの(23例)、それに次ぐのは、頭部と上半身に塗布したもの(11体)となり、顔面塗布が重視された事がわかった。どの段階で塗られたかは諸説あるが、これらの説を紹介した上で、当論文は結論として、第32号墓出土の1号人骨については、白骨化が進みながらも頭髪が残存している段階で塗られたと判断している(再塗とも考えられるが)。他人骨については、直接骨に塗ったとは考えがたいとも示している[注 17]。

 

隼人と関連が指摘される文化
群馬県高崎市長瀞西古墳(5世紀前半)出土の鉄鏃の中に、南九州と近畿を中心に出土するタイプである「二段逆刺鉄鏃」[55]が見られており(1995年時点で群馬県でも2例が確認されている)、かつては隼人と関連する鏃ではないかとの指摘があった[56]。
蛇行剣[57]。「地下式横穴墓」や「板石積石棺墓(地下式板石積石室墓)」から蛇行剣の出土が比較的多いことに由来する。ただし前述のように、隼人と地下式墓制を関連付けて論じられない現在、どの程度有効性のある学説か疑問がある。
日向駒 - 『日本書紀』に推古天皇が「駒ならば日向の駒」と歌を詠んだ記事が見られるが、当時の日向は大隅・薩摩を含んだ地域であり、森浩一は「隼人の馬」を指すものではないかと指摘している[58]。この時代の南九州はまだ征圧が確定的ではない為、内国の馬とは区別視されたものと見られる。また、『新撰姓氏録』には額田部の先祖伝承で、允恭(いんぎょう)天皇第19代の治世、薩摩と戦をしている時、額に「田」という字のつむじのある馬を手に入れ、天皇に献上したので、額田という名を与えられたとの記述があり、隼人の馬である事から、南方に繋がるものとの推定もある[59]。これらの記事からも、隼人の馬が文化的にも内国とは別の扱いを受けていた事がわかる(現在でも、地理的・風土的特色から御崎馬が存在している)。この時代の日向馬が大和に送られたことは遺骸からも判明しており、大阪府四條畷市の蔀屋北遺跡からは全身骨格(体高125センチ、5世紀頃)が出土しており、御崎馬の類と見られている[60]。ただし、この馬の全身骨格については、歯の形状が木曽馬に近かったことも指摘されている[61]。

民族系統
古代史学者の上田正昭によれば、現代日本人の多くの血液型で海外人種と一番近いタイプは中国南部の「湖南型」で[62]、中国東北部の「満州型」や「朝鮮型」とはかなり違うとされる[62]。一方で、指紋型は朝鮮南部に近いとされる[62]。そして九州南部地域は現在でも血液指数、指紋指数が特殊な数値を示す[63]事から、隼人も多少なり、血液・指紋の型は大和とは異なると見られる。
『古事記』には、鵜飼は隼人の文化であるという記述がある。鵜飼は「照葉樹林文化」を特徴づける要素である。したがって「照葉樹林文化」をもった集団が隼人に多分に含まれていたことが示唆される。
歴史学者の角林文雄によれば、隼人はオーストロネシア系民族とする見解がある[64]。
隼人とは、文化的・人種的に独立した固有の民族集団ではなく、7世紀末 - 8世紀当時の律令政府が、律令体制導入の過程で大陸から取り入れた華夷思想に基づいて、古墳時代後期以来、地域的独自性が強く、班田制などの導入が未施行である薩摩・大隅地域の人々を、律令体制外の辺境民(化外の民)として「設定」し、朝貢させる形をとらせた、政治的に創出された「疑似民族集団」と捉える意見もある[65][35][37][17]。

 

--------------------------------

 

神八井耳命:大和朝廷の全国統一に向けて東奔西走。御子の健磐龍命邪馬台国(やまとのくに)の併合に尽力。

神八井耳命は、岐須美美命⇒臺與(台与、とよ)の異母弟にあたる

 

 

健磐龍命(たけいわたつのみこと、神武天皇即位前14年[1] - 神武天皇93年丙午8月15日[1])は、古代日本の人物あるいは神。景行紀に見える阿蘇都彦命[注 1](あそつひこのみこと)と同一人物とする説がある[2]。

現在は阿蘇神社の祭神として知られ[8]、健磐龍命神[3]、健磐龍神[2]、阿蘇神[2]、阿蘇大神[1]、阿蘇大明神[9]という神号を持つ。さらにのちには阿蘇山の火山神としての性格も備えた。

系譜
健磐龍命の家系については5説がある。

第1は、神八井耳命の第5子とする説[1][2]である。神八井耳命は神武天皇(初代天皇)の第3皇子で綏靖天皇(第2代天皇)の兄であり、天皇の位を弟に譲って神祇を奉典したという[10]。

第2は、神八井耳命の第6子とする説[1]である。

第3は、神八井耳命の孫とする説[11]である。

第4は、神八井耳命の5世孫とする説[1]である。

第5は、神八井耳命の11世孫とする説[12]である。

 

記録
ここでは健磐龍命についての記録を史料別に示す。

日本書紀
『日本書紀』には、阿蘇都彦について次のような記載がある。景行天皇18年6月16日に景行天皇(第12代天皇)は九州巡幸の一環として阿蘇国に到ったが、その国の野原は広く遠く、人居は見えなかった。そこで天皇は「是国に人有りや。」と言った。するとその時阿蘇都彦・阿蘇都媛の二神があり、たちまちに人になって天皇のもとにいたり、「吾二人在り。何ぞ人無らんや。」と言った。ゆえにその国をなづけて阿蘇といったという。ただし、『日本書紀』には阿蘇都彦と健磐龍命を同人とする記録はないことに留意される。

肥後国風土記
『肥後国風土記』にも『日本書紀』とほぼ同内容の記載がある。景行天皇の発言は『日本書紀』と同一だが、二神の発言は「吾二神、阿蘇都彦阿蘇都媛、見(いま)此の国に在り。何ぞ人無らんや。」となっている。

延喜式
延喜式神名帳には、肥後国阿蘇郡の名神大社として「健磐龍命神社(たけいわたつ の みこと の -)」が記載され、現在は阿蘇神社一宮の祭神が健磐龍命である[2]。

この阿蘇神社の創始は、孝霊天皇第7代の9年6月に、孝霊天皇(第7代天皇)が速瓶玉命[15](前述)に勅して健磐龍命を神として祀らせたこととされる[1]。またこの月の26日に勅して阿蘇宮を修造させた[1]ともいう。

また、阿蘇神社は景行天皇第12代が阿蘇を訪れた時(前述)に速瓶玉命(前述)に命じて宮地村に建てたものであるともいう。また、景行天皇18年に景行天皇は健渟美命(前述)惟人命 ( これひとのみこと ) 健磐龍命 ( たけいわたつのみこと ) の孫)」に勅して特に阿蘇神社への崇敬を尽くさしめたともいう[1]。

 

国造本紀
『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、崇神天皇(第10代天皇)の時代に、火国造と同祖で神八井耳命(神武天皇(初代天皇)の皇子)の孫の速瓶玉命が初代阿蘇国造に任じられたという。また、速瓶玉命は、その父健磐龍命の意志を継ぎ、農耕を広めて畜産・植林等にも力を尽くしたという[18]。

 

阿蘇における伝承
以下に『阿蘇郡誌』を基本とした伝承を示す。

健磐龍命は神武天皇即位前14年に神八井耳命の第5子として誕生した。

神武天皇76年に神武天皇(初代天皇)は孫である健磐龍命に西海鎮撫の命を下し、火の国に封じた「筑紫の鎮守」健磐龍命はこの年の2月に山城国宇治の郷から阿蘇に下向した。この途中、宮崎において神武天皇の宮跡にその神霊を祀ったのが宮崎神宮の創祀とされる[4]。そこから延岡にうつり、そこから五ヶ瀬川をさかのぼり御嶽山の麓(御岳村)にしばらく留まり、成君・逆椿・村雨坂などを回った[19]。そして御岳から馬見原に入り、幣立宮を建てて天つ神・国つ神を祭った[19]。そこから草壁にうつり、阿蘇都姫(前述)をめとり阿蘇都彦と号した。そこから阿蘇にうつった。

当時、阿蘇カルデラの内部の阿蘇谷・南郷谷は湖(「介鳥湖」と呼ばれた)であった。健磐龍命は田を造るために湖水を排水しようとした。

そのときに子が生まれたので、その地は産山という[20]。あるいは、生まれたのは健磐龍命の嫡孫で、命を山にたとえて「山が生まれた地」という意味の命名であるともいう[21]。あるいは、生まれたのは阿蘇大神自身であるともいう。

そこから移動した健磐龍命は、排水のために外輪山を蹴破ろうとしたが、峠が二重になっているために破れなかった(二重峠)。2度目は山に隙間があったために成功し、湖水は西の方に流れ出た。「すきまがある」を約して「すがる」とし、以後この場所は「スガルが滝」と呼ばれるようになった。今「数鹿流ヶ滝」と書くのは、数匹の鹿が流されたためである[22]。また、健磐龍命が蹴破った時に尻餅をついて「立てぬ」と言ったことから「立野」の地名ができた[22]。

熊本市の小山と戸島は蹴破られた山の破片であり、菊陽町の津久礼(つくれ)は「つちくれ」の約で土塊が落ちたところであり、合志(こうし)という地名は小石に由来するという。また、大津町の引水(ひきみず)も関係地名である。

なお、健磐龍命は水が引く途中に流れをせきとめていた大鯰を退治したとする伝承[23]も存在する。

なお、阿蘇カルデラ内がかつて湖であって、立野付近の決壊により消滅したというのは地学的事実であり、決壊年代は7万3千年以前と推定される[24]。なお、カルデラの北側では弥生時代の櫂が出土しており、ごく最近まで一部は水域が残っていた[24]。

こののち健磐龍命は自ら矢を射て、それが落ちたところに宮を定めた。これは現在の矢村社の地である。そうして定めた宮の地が、今の宮地の地名の由来である。この宮の近くには、「今村」「西村」「西町」といった集落が形成されたという[25][26]。そののちに健磐龍命は残賊を平定した

健磐龍命は阿蘇一帯を統治して、神武天皇93年丙午8月15日に107歳で薨じた。阿蘇市の阿蘇神社の楼門前には神陵があり、2個の小丘の北が健磐龍命、南が阿蘇都比咩神の陵であるという。

 

その他
健磐龍命は「九州の長官」だったという[4]。
神武天皇は神武天皇76年2月1日に健磐龍命を阿蘇に封じたという[2]。
健磐龍命は神武天皇76年2月に大和国から阿蘇に下向したという[2]。
のちの阿蘇神社の大宮司家(健磐龍命の子孫)が宇治氏なのは、健磐龍命の出発地が宇治であることによると伝えられる[2]。


伝承地
阿蘇大御神御足跡石(南阿蘇村白川西柳)
白川乾藪堂にある巨石で、健磐龍命の足跡が残されている[27]。伝承のみが残り石そのものは失われていたが、平成11年に地元住民により再発見された[27]。

 

 

--------------------------------

 

 

カテゴリーは類似すると思われる過去記事;

 

www.otonarashino.com