10/30、11/3の4試合観戦を経て、11/5(土)生粋の銚子商業ファンとしてのメインディッシュが訪れた。色々な意味で楽しみにしていた。
その1は、ようやく銚子市野球場で試合観戦ができることだ。
自宅から有に100 Kmを越えた距離のため、それなりの気合いが必要となる。
いずれはと考えていたが、2020年から2021年に渡る茶番による無観客で3年越しの念願が叶った。
>(2019年)11/4、1回戦を勝ち上がった東京学館と、銚子商業の緒戦がありました。
@銚子市野球場
観戦を視野に入れておりましたが、私用が重なりかないませんでした。
おそらく、銚子商業のレジェンドもプレーしたであろうこの球場にも興味がありました。
その2が、初めての市立銚子生観戦となる。
歴史を知る千葉高校野球ファンであるなら、市立銚子と銚子西の存在は格別だろう。
銚子商業の甲子園の道を阻止したライバルといえば習志野が思い浮かぶが、この銚子市民からみた身内の2校も銚子商業に立ちはだかったライバルだ。
2008年4月1日に旧・銚子市立銚子高等学校と銚子市立銚子西高等学校が統合して開校した。手続きとしては旧・市立銚子高を廃止し、市立銚子西高を新・市立銚子高に改称する形がとられた[1]。
今春の関東大会は、一泊して銚子商業の2試合を観戦したが、宿泊場所で春季関東大会の千葉代表校の歴史をおさらいした。
いくつかこの3校の凌ぎ合いが残されていたが、
①銚子商業が全国制覇した1974年、銚子商業は市立銚子に連敗していた。
球場開き 銚子商業4-11市立銚子
春季県大会 銚子商業2-4市立銚子
②銚子西は、2005年まで実力高としてその存在感を示していた。
春季千葉県大会決勝:東海大望洋4-3銚子西
関東大会1回戦:銚子西8-7小山
関東大会2回戦:銚子西5-9慶應義塾
*銚子西3度目の関東大会出場
(この年の夏、銚子商が10年ぶり12回目の甲子園出場)
1974市銚子…準優勝
— 千葉県高校野球打順bot (@chiba_dajun_bot) 2023年3月1日
6石毛宏典③.316点2
4並木茂敏③.150点0
3石橋 真③.300点2
7河野光男③.333点3
2柳川寿夫③.294点2
5西広国利②.267点2
8山口昴一郎③.400点5
9古渡 勉②.125点1
1銚子洋二②.214点1
監 阿玉新一
2022.07.08
石毛宏典が振り返る1974年の「黒潮打線」銚子商。「篠塚(和典)はひ弱な印象だけど、投手力が際立っていた」
桑田真澄と清原和博のKKコンビが躍動した1985年のPL学園(大阪)、松坂大輔を擁した1998年の横浜(神奈川)、史上初となる春夏連覇を2度達成した大阪桐蔭(大阪)......夏の甲子園で「歴代最強」と呼ばれるチームはいくつかある。
そんな強豪校の中で、篠塚和典(当時は篠塚利夫/元巨人)や土屋正勝(元中日、ロッテ)などの活躍で優勝した1974年の銚子商(千葉)を挙げる声も根強い。決勝までの5試合で29得点と打ちまくった打線は"黒潮打線" と恐れられ、一方で失点はわずか1。圧倒的な強さで大会を制した。
1980年代~1990年代にかけて黄金時代を築いた西武で、長らくチームリーダーを務めた石毛宏典氏は、市立銚子(千葉)時代に1番打者として1974年の千葉県大会決勝で銚子商と相まみえている(0-2で敗戦)。当時、石毛氏が感じていた銚子商の強さ、自身が銚子商に入らなかった理由、当時の千葉の高校野球熱について聞いた。
――1974年の夏の甲子園を制した銚子商は、決勝までわずか1失点。唯一の失点は1試合目のPL学園戦での押し出しのみと、エースの土屋さんは適時打を1本も許しませんでした。当時の土屋さんや、銚子商の投手陣にはどんな印象がありますか?
石毛宏典(以下:石毛) 土屋は絶対的エースという存在で、完成された投手でしたね。同じ千葉県旭市の出身で、彼が一中(旭市立第一中学校)で僕が二中(旭市立第二中学校)ということもあって、よく練習試合をしました。中学時代は、「そこそこ安定した投手」くらいの印象だったんですが、銚子商へ行ってから変わりましたね。
土屋が1年生の時の3年生には、エースの根本隆さん(元大洋、西武)がいました。銚子商の根本さんといえば、成東の鈴木孝政さん(元中日)、科学技術高の森繁和さん(元西武)と共に"千葉三羽ガラス"と言われるくらいすごい投手だったんです。さらに2年生には、飯田三夫さんという体が大きな次のエース候補もいました。
そんな優秀な投手たちがひしめく銚子商で、土屋は1年生の時は練習に励んで下積みをし、実質的に2年生からエースとして活躍し始めました。ボールが軟式から硬式になったことで球が速くなりましたし、体もでき上がっていきましたね。ランニングを中心に体作りをしていたんでしょうけど、徐々に投手として完成されていきました。筒井精という"準エース"の右の本格派もいて、同じく右投げの土屋と2人でほとんどの試合を投げていた。投手のレベルは高かったです。
篠塚は「好打者」。打線より「土屋でもっているチーム」
――打つほうでは、5試合で48安打29得点を挙げた強力打線が売りでした。そこで4番を打っていた篠塚さんはどんな打者でしたか?
石毛 篠塚は僕らのひとつ下の学年でしたが、線が細くて、ひ弱な印象でした。4番で甲子園でもホームランを打ったりしていましたけど、僕らとの試合ではあまりホームランを打たれた記憶がありませんし、「強打者」ではなく「好打者」という雰囲気でしたね。そもそも昔は、ホームランを打つ選手なんてほとんどいませんでしたから。バットも木製でしたしね。
――ちょうど1974年の夏の大会から金属バットの使用が解禁されましたが、篠塚さんはそれまで同様に使い慣れた木製バットを使っていたそうですね。石毛さんはどうでしたか?
石毛 自分も木製バットを使っていました。王貞治さん(現ソフトバンク球団会長兼特別チームアドバイザー)が現役時代にずっと使っていた、千葉県で作られていた「ジュン・イシイ」というしなりのある圧縮バットがあって、試合前にひとり2本ずつぐらい支給されていたんです。木製バットのほうが慣れていましたしね。
――実際に、金属バットを使った選手は6割程度だったそうですね。話を"黒潮打線"に戻しますが、どんな打線でしたか?
石毛 1番・ショートの宮内英雄は、"嫌らしい"という感じの打者でしたね。4番・サードの篠塚はもちろん、エースの土屋もよくヒットを打つし、確かにいい打線だったと思います。ただ、打撃よりも投手力が際立っていて、「土屋でもっているチーム」という印象でしたけどね。守備はよく鍛えられていましたし、篠塚もグラブさばきやスローイングなどにはセンスを感じました。
――土屋さんの、投手としてすごかったところは?
石毛 とにかくコントロールがよくて、スタミナもありました。印象に残っているのはストレート。当時は基本的に真っ直ぐとカーブくらいしかなかったんじゃないかな。昔はどの投手もそんなもんですよ。スライダーなんて、高校生ではあんまり投げる投手はいなかった。
1974年の県大会の決勝で市立銚子は銚子商に0-2で負けました。僕も土屋に抑えられてしまって4タコでしたね。
千葉の野球の強さが全国に広まった時代
――土屋さんは夏の甲子園で優勝したあと、「県大会決勝の市立銚子戦が一番しんどい試合だった」と言っていたそうですね。
石毛 「市立銚子が一番強かった」みたいなことを土屋が言ってくれたようですね。リップサービスもあると思いますけど(笑)。野球そのもののレベルは、僕らより銚子商のほうが断然上でしたから。
――野球のレベルという点では、銚子商に続いて翌1975年も千葉の習志野が夏の甲子園を制覇し、千葉の野球の強さが全国に浸透した時代だったと思います。当時の県大会を勝ち抜くのは大変でしたか?
石毛 出場校も多かったですしね。まして、僕らが1年生の時までは千葉県単独の大会ではなく、「東関東大会(1959年~1972年)」という、千葉県と茨城県を対象とした地方大会が行なわれていた。茨城は土浦日大や取手一、竜ヶ崎一あたりが強かったですし、とにかく大変でしたよ。
ただ、1974年は銚子商、1975年はエースの小川淳司(元ヤクルト、日本ハム)が牽引した習志野が夏の甲子園で優勝しましたし、確かに千葉の野球のレベルが高まっていった時代だと思います。銚子商や市立銚子もそうでしたが、他の地域から選手を引っ張ってくるとかじゃなく、ほとんど地元の子どもたちでチームを編成していた。銚子商が甲子園に出れば、地元の応援団がアルプススタンドで大漁旗を振って応援したり、とにかく野球熱が凄まじかったですよ。
そもそもは1965年の夏の甲子園で、木樽正明さん(元ロッテ)がエースの時に銚子商が準優勝した頃から、「野球をやるなら銚子商だろ」みたいな雰囲気があったんです。県内の優秀な選手はみんな銚子商に集まっていましたね。
――石毛さんが銚子商を選ばなかった理由は?
石毛 そもそも高校に行くつもりがなくて、野球も中学で辞めて、卒業後は大工になろうと思っていました。その頃の野球部はかなり厳しくて、正座させられたり殴られたりが当たり前の時代でしたから、面白くなかったんでしょう。
でも、中学の野球部の監督でもあった担任の先生に「高校に行って野球をやれ」と言われて......。嫌だったので断ったんですが、親父からも「先生の言う通りにしろ」と言われたので、高校に行って野球をやることにしたんです。先生に「銚子商ですか?」と聞いてみたんですが、「いや、市立銚子に行け」と。
篠塚らと地元の子供たちに野球指導
――銚子商ではなかったんですね。
石毛 市立銚子の野球部で監督をされていた矢部正臣さんが、担任の先生と親しかったようなんです。2人とも野球に対する情熱がすごい方で、「これから市立銚子の野球を強くしたいんだ」とおっしゃっていました。
ただ、市立銚子は進学校で、普通科の生徒は勉強が忙しくて野球部を辞めてしまうという傾向があった。そこで矢部監督は、「これから銚子商と対等に戦っていくために、工業化学科に野球部の生徒を集めて強くしよう」ということになったんですが、僕らの学年がその"走り"になったんです。 今はうまく勉強と部活を両立している学校が多いですけどね。
――石毛さんはあと一歩で甲子園に届かなかったわけですが、「もし決勝で勝っていたら......」と思うことはありますか?
石毛 普通は悔しいですよね。でも、自分にはそういう気持ちがなかったんです。そもそも高校に行く気もなかったですし、「甲子園なんて別に」って感じでしたから(笑)。
――しかし石毛さんはその後も駒澤大学で野球を続け、社会人野球(プリンスホテル)を経て西武に入団。西武黄金時代のチームリーダーとして、8回の日本一、11回のリーグ優勝に貢献されました。
石毛 中学で野球を辞めようと思っていたのにね。本当に人生はわからないものです(笑)。
――当時の銚子商のメンバーと会う機会は今でもあるんですか?
石毛 木樽さんが中心になって2019年まで開催していた「黒潮野球教室」では、僕も篠塚も指導をしていました。"野球のまち、銚子"の復活を目指して、銚子商と市立銚子出身の元プロ野球選手が地元の子どもたちを指導するというイベントで、年によっては土屋も参加していました。
今では千葉県東総地区(銚子市・旭市・匝瑳市)の高校出身の元プロ野球選手が高校生に野球の技術指導をする「東総地区三市交流野球教室」が行なわれています。みんなで協力して子どもたちに指導することは、有意義に感じています。
――そこで指導した子供たちの中にも出場する選手がいると思いますが、今年も千葉大会が7月9日に開幕。全153チームが夏の甲子園を目指します。
石毛 春夏連続で甲子園を狙う木更津総合が注目されていますが、昨夏に甲子園に出た専大松戸や、拓大紅陵、習志野、市立船橋など、多くの高校にチャンスがありますね。もちろん、母校の市立銚子にも期待しています。銚子商も今年の春季千葉県大会では、習志野や木更津総合を破って準優勝を果たすなど力をつけてきていますね。野球が強いと銚子は活気づくので、頑張ってほしいです。
>竜ヶ崎一
古参の銚子商業ファンによると、専大松戸・持丸監督が、竜ヶ崎一監督時代に、頻繁に銚子市野球場に来て、練習試合を行っていた。
当時は、観衆が怖いと感じるほどの非常に厳しい監督だった、そうだ。
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(気合いで)5時起床。同行する家族をピックアップして銚子市野球場に向かった。
8:20頃には到着するだろうと思っていたが、佐原を過ぎてからの一車線で度々ゆっくりの地元車両に遭遇。到着は8:40となった。
8:45試合開始もあると想定していたのでギリギリだ。
が、雰囲気が違う。
どう見ても、シートノック前だ。
ナスパ喫煙所での関係者の会話から、各球場の「主幹」は各チーム持ち回りと知っていた。この日の主幹は銚子商業だろう。
いずれにしろ、思いがけず試合前のシートノックから観戦できた。
気になったのは外野の芝生がまるで整備されていないこと。
バックスクリーン後方の「市立銚子病院」と共に、銚子市の財政の厳しさを明示している。
市立銚子の横断幕は『一投一打全員野球』。
9:15、銚子商業のシートノック開始。
いきなり#5が暴投。
前チームの流れるようなシートノックとは大違いで、スローイングの悪さ、肩の弱さが目立つ内容だった。
9/17の志学館戦における守乱での自滅がこびりついているため印象は悪い。
県大会で1回戦(10-9我孫子)を突破した市立銚子のシートノックも似たようなものだった。
場内アナウンスでスタメンが発表された。
電光掲示板の施設がないため、このアナウンス頼みとなった。
秋県大会の選手名簿を持参していたので事なきを得たが、声が割れることもあり出場選手の把握に苦労することになった。
#1が誰なのか、特に、注目していた
市立銚子スタメン;
1⑨ 加瀬
2⑥ 佐藤(1年生)
3⑦ 鈴木(1年生)
4④ 林
5③ 磯部
6② 田沼(1年生)
7⑤ 行方
8① 石毛大貴(1年生)左
9⑧ 岩瀬
銚子商業スタメン;
1⑨ 鵜澤(左打ち)
2④ 渡邉(左打ち)
3⑧ 横田(左打ち)
4⑥ 押本(左打ち)
5⑦ 糸川
6③ 坂上(左打ち)
7② 鈴木
8① 長田 *別人のような投球+アナウンスが聞き取れず4回表まで把握できず
9⑤ 人見
銚子商業スタメンは全員が2年生。
ここまで来ると、(試合中の古参銚子商ファン(OB?)との短い会話から)1年生に実戦で使える選手がいないのではと思い始めている。
追記;1年生の登録メンバーは、投手の3人だった
9:30、試合開始
1回表市立銚子
バックネット裏観客席を閉鎖していたため、一塁側観客席で観戦した。
これまで、バックネット裏が定席だったため、視認による球速表示の感覚はない。
1 三振
2 遊ゴ
3 三振 カーブ
ストレートのキレが良い。逸材の隠し球が投げていると思っていた。
1回裏銚子商業
1 鵜澤 二飛
2 渡邉 遊安
3 横田 一飛
4 押本 一走渡邉二盗(1) 四球⇒二死1、2塁
5 糸川 右飛
1番から左打者を4人並べた。
市立銚子の先発投手を右(石毛春毅)と予想した可能性もあるかもしれない。
2回表市立銚子
4 遊ゴ
5 中安
3 一走牽制アウト 一ゴ
スライダーのキレも良い
(次の回に打順が回るので、ようやく誰が投手なのか分かる...)
2回裏銚子商業
6 坂上 遊エラー
7 鈴木 送りバント⇒フィルダースチョイス 無死1、2塁
8 長田 送りバント⇒内野安打 無死満塁
アナウンス「タカダ?」。ようやく「もしかしてオサダか?」という状態だった。
9 人見 二ゴ 市立銚子0-1銚子商業
1 鵜澤 右邪飛(犠牲フライ) 市立銚子0-2銚子商業
2 渡邉 二死2塁 遊安 市立銚子0-3銚子商業
3 横田(169/61) ライトホームラン 市立銚子0-5銚子商業
投手交代:#11石毛春毅
4 押本 四球
5 糸川 二盗(2) 四球
6 坂上 三盗(3) ライトオーバーツーベースヒット
市立銚子0-7銚子商業
7 鈴木 三振
相手エラー、四死球でもらったチャンスに足を絡めて、タイムリーで返す、理想的攻撃となった。
3回表市立銚子
三者凡退
3回裏銚子商業
8 長田 左中間ツーベースヒット
9 人見 中ツーベースヒット 市立銚子0-8銚子商業
1 鵜澤(172/64) ライトホームラン 市立銚子0-10銚子商業
打った瞬間に分かる完璧な当たりだった
投手交代:#17勝山(右)
2 渡邉 右安
3 横田 二盗(4) 左飛
4 押本 四球 一死1、2塁
5 糸川 右犠飛 一死1、3塁
6 坂上 ディレードスチール(6) 市立銚子0-11銚子商業
一ゴ
4回表市立銚子
三者凡退
秋県大会の選手名簿を示して、臨席のCの帽子をかぶっている2人に話しかけた。
「銚子商業の投手は誰ですか?」
「長田です」
「あの志学館戦で投げた長田ですよね」
「そうです」
「まるで別人ですね」
「(二年生に)投手志望者がいなかった・・・急成長しました」
「おまけがこれです(矢澤を指さす)」
「なるほど」
もっと質問したかったが次の回が始まった。
4回裏銚子商業
7 鈴木 三遊間安打
8 代打:加藤 中飛
9 人見 右飛
1 代打:#18川和田(左打ち・2年生) 中安
2 代打:遠藤(2年生) 中飛
遠藤はそのまま⑦の守備につく
5回表市立銚子
投手交代+守備位置変更
#10矢澤
3 中飛
4 二ゴ
5 代打:上田 三振
ゲームセット
<コメント>
文字通りの圧勝。
1年生は出場せず。
一方で、圧勝の影響で、不安視している守備機会を観る機会がほとんどなかった。
ファースト、サード、レフトの守備機会はなく、バッテリーを含めた連係プレーも確認できず。
試合後は、圧勝を受けて穏やかな雰囲気に包まれた。
話題は次戦の千葉黎明戦に移り、厳しい戦いになるとの予想があちこちから聞こえてきた。
事実、ここまで5試合を観てきた感想は、
A:成田、千葉黎明
B1:東京学館、銚子商業
B2:多古
銚子市野球場にある銚子市高校野球史の展示物を確認した。
最も印象に残ったのが、
推察通り、1995年選抜準優勝の事実上の立役者が、
『高野豊人』氏であることを理解した。
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家族サービスとして、残されていた観光名所
妙福寺、銚子電鉄 仲ノ町駅車庫見学、川口神社(改修工事中だった)、千人塚(利根川河口)、無形文化財 銚子ちぢみ 伝統工芸館
を巡った。
「市立銚子・銚子西球史」と対銚子商業戦績;
2004年夏;