秋季千葉県大会において、初見でインパクトを感じたチームは、中央学院と我孫子東でした。度々言及しているとおり、昨年の選抜まで、高校野球ファンとしての「長期ブランク」を空けていたため、コアなファンがご存じな情報を追いかけている側面があります。
そのことが、少年時代や現役時代の記憶と結びつくことがあり、このブログを続けるモチベーションの一つになっています。
故野村 克也氏がシダックス監督時代に指導を受けた、中央学院の相馬監督に興味を持ちました。追記として大幅に拡充致しました。
確実に、今後も千葉県高校野球を引っ張っていく存在になるでしょう。
そのことを起点に、過去の戦績などを追いかけている(いわゆるネットサーフィン)
と、思わぬ情報に突き当たりました。
2011.5.2
宮城県立気仙沼高校野球部が、5月1日から5日までの間印西市の総合福祉センターに宿泊、近隣高校との試合や練習を行った。
同校は津波被害を免れたが、校舎が避難所となり、グランドも使えない状態のため、印西市での滞在となった。
印西市を訪れたのは、気仙沼高校野球部の生徒29名、監督2名、マネージャー2名の計33名。
印西市での日程は、5月1日東京の早実グランドで同校関東OB会による歓迎行事を受けた後、夕方印西市着。2日は我孫子東高校で練習を行い、3日千葉商業高校で試合、4日流山おおたかの森高校で試合、5日我孫子東高校で試合を行って、午後帰郷というもの。
元印旛高校野球部監督の蒲原弘幸氏が現在我孫子東高校野球部監督を務めていることなどから、当初我孫子で受け入れる話が進んでいたが、宿泊や入浴施設などの関係から印西市も協力することになり、最終的に総合福祉センターでの受入となったもの。
1日行われた歓迎式では、山﨑山洋印西市長、飯合肇ゴルフプロが立ち合い、山崎市長による歓迎挨拶、救援物資として米5俵、枕100個(市高齢者クラブ連合会が寄贈)が贈られた。
>元印旛高校野球部監督の蒲原弘幸氏
1981年春の選抜は決勝でPL学園に敗れ準優勝
で知られる、千葉が誇る名将・蒲原弘幸氏が我孫子東の監督だった・・・
>我孫子東;
最も、『勢い』を感じた。
県立のこのチームに、何が起こっているのか、興味がある。
これで繋がりました。
ベスト8を賭けた東海大市原望洋戦
9月28日、秋季千葉県大会3回戦。東海大市原望洋vs我孫子東の一戦は東海大市原望洋が4対3で我孫子東を破り、2年連続のベスト8進出を決めた。
<コメント>
試合終盤のみの観戦でしたが、甲子園出場経験のある相手に名前負けせず「気迫」で圧倒。一種異様な雰囲気だった。
我孫子東???
記憶にありません。
- 2011年(平成23年) - 千葉県立湖北高等学校、千葉県立布佐高等学校が統合し、千葉県立我孫子東高等学校が開校。校舎は旧布佐高校の校舎をそのまま使用。
蒲原 弘幸:佐賀商 (佐賀) 監督→東金商 監督→千葉商 監督→印旛 監督→柏陵 監督 (以上4校:千葉)→樹徳 (群馬) 監督→布佐/現・我孫子東 (千葉) 監督
【気になるアノ人を追跡調査!野球探偵の備忘録(22)】「高校野球の名将」。通算勝ち星や甲子園出場回数、プロ野球選手輩出人数など、その技量を測るてんびんは数知れないが、かつて無名の公立校ばかりを次々と甲子園に導いた「公立校の名将」がいた。佐賀商(佐賀)、千葉商、印旛、柏陵(以上千葉)の、異なる県立4校で通算7度の甲子園出場を誇り、1981年センバツでは準優勝を果たした蒲原弘幸氏が、その手腕の秘密を明かした。
「僕がやったんじゃない。生徒が連れて行ってくれたんですよ。すべて選手が頑張った結果です」
半世紀近い指導者人生を振り返り、蒲原はそう語り始めた。初任地の佐賀商では就任2年目に甲子園出場。その後転任した千葉商でも2年で聖地の土を踏む。
いずれも県内では古豪と言われる伝統校も、就任2年目の新人監督としては異例の快挙。だが、同時に窮屈さも感じていた。
「とにかくOBの声がものすごくうるさかった。『あんな作戦しやがって』とよく言われました。ダブルスクイズで試合を決めた後でさえ『あそこは打たせたほうが良かった』とかね。伝統校ほど批判されるものですよ」
嫌気が差した蒲原は自ら転勤願を出し、74年、当時まったくの無名校だった印旛に赴任する。
「あんまり面白くなかったので、今度は誰も知らない学校に行ってやろうと。行ってみればグラウンドがない、バックネットがない。(以前)田んぼだった練習場は雨が降れば1週間練習ができない。たった11人の部員は土曜に練習すれば日曜はまず出てこない…。もうワクワクしましたよ」
赴任すると、すぐさま野球部の強化に着手。まず行ったのは、意外にも坊主強制の禁止と男女交際の奨励だった。
「坊主にするとね、特権意識を持つんですよ。『俺は野球部だぞ』って。まずはそれをなくしたかった。男女交際だってどんどんやればいい。彼女のためにやろうと、そういう気持ちでなきゃ男はだめ。1人と言わず3人くらいつくれと言ってましたよ(笑い)」
一見とっぴで破天荒な蒲原の考えは、やる気のなかった弱小校の選手には刺激的に映った。
蒲原が日課で行っていた早朝6時のランニングには、いつしか部員が並走するようになり、気づけば立派な朝練になっていた。蒲原の熱は保護者にも伝わり、あるとき選手の親から工事現場の作業用発電機が差し入れられた。練習は深夜0時を過ぎるころまで続いた。
練習が終わると手製のインスタントラーメンを振る舞い、同じ湯船に漬かる。それには生徒との信頼関係を築く目的もあった。成績の悪い生徒の家に家庭教師として押しかけ、問題を起こした生徒に両親の前で手を上げたこともあったという。
「体面のためか、学校はすぐに(問題を起こした)生徒を切りたがる。心を開いて、1対1で話をすれば、必ず生徒は立ち直るんです」
ひたすら生徒との時間を大事にした。
その後、部員11人の公立校は、たった3年で千葉を制し、さらに3年後には全国準優勝の強豪にまで生まれ変わった。長時間にわたる厳しい練習に不満を漏らす者は誰もいなかった。
「僕は何かをしろと強制することはあまり好きじゃない。いかに選手をうまく乗せるかじゃないですか。やれやれと言ったって、自分からやりたいとか勝ちたいと思わなきゃ、人から言われてたんじゃダメなんですよ」
柏陵では就任7年目に夏の甲子園へ。もちろん激戦区と言われる千葉を県立校が勝ち抜くのは、フロックでできることではない。
異なる4つの県立校での甲子園出場は、蒲原だけの記録。では結局、公立校を甲子園に連れて行くには何が必要なのか。蒲原はしばらく考え込んだ後、こう答えた。
「ただひとつ、共同生活が必要なんだと思う。合宿所や寮のない公立校でも、生徒となるべく長い時間を一緒に過ごし、信頼関係を築く。僕は教育者というよりも、扇動者だったのかもしれない。高校野球の指導者はどこかでカリスマでもなければいけないんです」
選手を乗せ、保護者を乗せ、ひとつになって目指した甲子園の地。高校野球100年の歴史の、半分近くを過ごした公立校のグラウンドから、聖地は決して遠くはない。
☆かもはら・ひろゆき=1939年4月22日生まれ。77歳。佐賀県出身。東京・田園調布高2年秋の都大会で1試合24奪三振を記録。早大では3年から学生コーチ、学生監督。社会人野球の河合楽器入社後、64年に教員(社会科・倫理)として佐賀商に赴任。65年に監督に就任すると、以降、佐賀商で65年夏、千葉商で70年春、印旛(現印旛明誠)で78年春、81年春、83年夏、柏陵で99年春夏と公立校を甲子園に導き、81年春には準優勝に輝く。現在は麗澤大野球部コーチ。著書に「野球導」(日刊スポーツ出版社)がある。教え子に月山栄珠(印旛―阪神)、土橋勝征(印旛―ヤクルト)、鳥谷部健一(柏陵―西武、中日)ら。
<コメント>
当時、関東で無敵の強さを誇った印旛高校は、主力を1年生から起用した3年がかりのチームでした。主力が最上級生になると、一気に県ベスト4の壁を突き破り、全国区のチームに飛躍しました。
<追記>
・ 1980年秋季関東大会優勝
・ 1981年選抜準優勝
・ 1981年春季関東大会優勝
・ 1981年選手権千葉:ベスト4。銚子商に敗れ甲子園を逃した
> 長時間にわたる厳しい練習
も、つとに有名でした。
我孫子東・野球部の基盤に、蒲原弘幸氏の存在があることは間違いないでしょう。
長い時の流れを経ても、その血脈が続いていることに驚かされました。
まさに、良い意味での昭和の「妖怪」です。
<後記>
当時の最強・印旛高校を色々な意味でよく知っています。
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2023/06/30追記;蒲原弘幸氏の人間性が伝わる映像が残されていた